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幕府の国地頭・国奉行の派遣

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長門国壇ノ浦で平家が滅亡すると、源九郎義経は平宗盛以下の捕虜(ほりょ)を連れて上洛し、九州には兄範頼が残って、平家に味方した武士の追捕(ついぶ)と、その所領の没収に当たった。義経が壇ノ浦合戦の後は、兄範頼をさしおいて、九州の事を執り仕切り、東国武士の小さな過誤をも見逃さず気ままかってな支配を行っているという声が、鎌倉の頼朝の耳に次々と入り、義経を召喚したのである。
 範頼の九州支配も、四か月後には召喚されて、短期間に終わった。所々から、範頼が神社・仏寺などの所領の支配を妨げているという訴えが相次いで朝廷へ出され、これが鎌倉の頼朝を動かしたのである。
 文治元年(一一八五)七月、源頼朝は平家没官領(もっかんりょう)と、平家に加担した原田種直・板井種遠・山鹿秀遠らの所領に地頭を置くまでの暫定期間、中原久経・近藤七国平の両人を沙汰(さた)人として下向させるから、範頼は心静かに上洛するよう指示した。この両人には、動乱で武士に押領されていた公領を国司へ、荘園は領家へ打ち渡し、新儀を止め、先規を守って国務・荘務を行うことができるようにせよと命ぜられた。このとき、「院宣(いんぜん)に従い、何事も奏聞(そうもん)して」後に執行するよう厳命された。このころの頼朝の政治姿勢をうかがうことができる(『吾妻鏡』)。
 更に四か月後の文治元年十一月、謀反人義経と行家(新宮十郎、源頼朝の叔父)を探索し、平家方の武士を追捕するという名目で、畿内と近国に守護・地頭が派遣された。もっとも、このときの守護・地頭とは、上洛した北条時政を京都守護兼近国七か国地頭に、山陽道五か国地頭に土肥実平(とひさねひら)・梶原景時を、鎮西九か国奉行に天野遠景を任命するといった国地頭であって、各国守護・公領荘園ごと地頭ではなかった。
 国地頭は国衙(こくが)領や荘園から兵糧(ひょうろう)米を反別五升徴収することを許されたので、未納者に対して厳しく譴責(けんせき)した。そのため各地で紛争が発生した。
 頼朝は未納分を免除し、畿内と近国の地頭を廃止し、鎮西九か国奉行のみを残した(文治二年六月)。後白河上皇の近臣である大宰権帥(ごんのそち)吉田経房の要望による。天野遠景は経房の在任中、九州で大宰府機構の目代的な役割を果たした。
 文治三年(一一八七)二月、天野遠景の注進によって、宇佐宮領の神官や名主たちが、本領を安堵(あんど)され、新恩に浴し、御家人として地頭を称することとなった。宇佐宮は、大宮司宇佐公通が平清盛に接近して、大宰権少弐や豊前守に任命されており、源平の争乱では常に平家方として行動してきたから、源氏政権の成立後は没官領とされて当然だったのである。