文治三年(一一八七)九月、宇都宮信房が九州に下向してきた。『吾妻鏡』に次の記事がある。
所の衆信房[宇都宮所と号す]御使として鎮西に下向す。これ、天野藤内遠景と相共に、貴海島を追討すべきの旨、厳命を含むに依りてなり。件(くだん)の島は、古来船帆を飛ばすの者無し。(中略)今度、予州(源義経)に同意の輩(ともがら)、隠れ居るかの由、御疑貽(ぎい)有るに依り、この儀あり、又、去年河辺平太通綱、件の島に到るの由、聞(きこ)しめすの間、殊に思し企て給う所なりと[云々] (原文は漢文)
これを要約すると、義経に加担した河辺平太通綱が貴海島(奄美の喜界島カ)へ逃げているという情報があったので、鎮西奉行人天野遠景とともに追討せよという厳命を帯びて、信房が西下したというものである。
この貴海島遠征計画は、この年十二月、天野遠景が郎従などを派遣して様子を探らせたところ、確かに河辺平太らがいることが分かったので、鎮西の御家人に動員をかけたが応じないため、重ねて頼朝から軍勢催促の命令を出してほしいと陳情した。宇都宮信房は自ら渡海すると主張したが、天野遠景に反対され、思いとどまらされた。信房は一族の精兵を派遣することにした。しかし、摂政九条兼実が、貴海島は遠島で、過去にも遠征した例がないから止めよと頼朝に強く諫(いさ)めたため、この計画は延期となった。
ところが、宇都宮信房は鎮西から、書状と海路図を送って、計画の詳細を言上したので、源頼朝も渡海を決行することに同意し、翌年、実行された。『吾妻鏡』文治四年(一一八八)五月十七日の条に次の記事がある。
遠景已下の御使ら、貴賀井島へ渡り、合戦を遂げ、かの所、すでに帰降するの由、言上する所なり
しかるに宇都宮所衆信房は殊に勲功を施すと云々、ここに信房の近江国の領所は、去るころ、非違別当(頼実)家領に付せられおわんぬ。この大功につき、返し給うべきかの由言上す。 (原文は漢文)
すなわち、貴賀井島遠征は成功し、宇都宮信房の功労が際立ったので、近江国の所領を返すよう朝廷へ言上したというのである。この近江国の所領について、『吾妻鏡』文治二年(一一八六)二月二十九日の条に次の記事があり、関連がありそうである。
所衆中原信房は造酒正(みきのかみ)宗房の孫子たり、殊に優賞せられ、今日、近江国善積(よしずみ)庄を賜わる。これ円勝寺領たりといえども、信房所望せらるの上は、宗房の旧労に酬いられんがため、此(かく)の如し云々
すなわち、信房は、祖父宗房の頼朝に対する旧労に酬いる意味も込めて、近江国善積庄を与えられた。しかし、天皇の寵臣である検非違使別当藤原頼実(のち太政大臣)によって取り戻されていたので、再度、頼朝から朝廷へ信房への返付を進言したのである。宗房の旧労とは何か、善積庄が信房へ返還されたかどうかは不明である。