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田川郡伊方庄地頭中原信房

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宇都宮信房は、後に田川郡伊方庄地頭職を得ている。このことと貴海島遠征が関連を持っている。『佐田文書』の「源頼朝下文(くだしぶみ)」を掲げると、

源頼朝の花押

      袖判(源頼朝)
  下す 豊前国伊方庄住人
      地頭職(しき)に補(ぶ)任の事
           前所衆中原信房
  右は前地頭直種、貴賀井島に渡らず、また、奥州を追討するの時、参会せず、この両度の過怠に依り、この職を停止(ちょうじ)すべきなり。よって信房をもって補任する所なり、限りある課役においては先例に任せてその勤めを致すべきの状、件の如し、以て下す
        建久三年二月二十八日                          (原文は漢文)
 というもので、「種」の字を使用する大宰府官大蔵氏一族と思われる伊方庄地頭直種が、御家人であるのに貴海島遠征と奥羽遠征に参陣しなかったことを理由に地頭職を没収され、宇都宮信房へ与えられたことを住人に知らせている。このころ、信房は日向国に若干の地頭職を得ていたことが、『建久図田帳』で確認される。河辺平太通綱追討に関連する所領であろう。
 この下文の「前所衆中原信房」について検討しよう。
 「所衆」とは、蔵人所に属する役人たちの略称で、六位の侍で、しかるべき者が選ばれたという。蔵人所は天皇の調度、書類を保管する役から機密に与(あずか)るようになり、所衆は使節を務め、密偵のような仕事もしたらしい。信房が中原氏を称するのは、信房の父宗綱が明法家(みょうぼうか)の中原広致(ひろむね)の婿となってからであろうと『築上郡史』は推測している。
 都の中下級貴族であった大江広元や藤原親能は、鎌倉に下って、頼朝の知恵袋として活躍するが、両人とも中原氏を称し、後には大江姓・藤原姓に復していることとともに興味をそそられる。
 宇都宮氏が、中下級貴族である明法家の中原氏の婿となった背景には地方国衙(こくが)の在庁官人の中で、法律に明るい家という地位が重要となってきていたのであろう(『大系日本の歴史』4)。中原氏にとっても、地方豪族と姻戚(いんせき)になることによって、経済的な不安定さを克服することができたのである。
 なお、信房の孫信景は壱岐中内左衛門尉(じょう)といわれ、一族といわれる山田政盛も、中内左衛門尉と呼ばれている。天野藤内遠景が、伊豆国天野の藤原氏で内舎人(うちとねり)(天皇の護衛役)という官職にある遠景という人物という意味のごとく、壱岐守(宇都宮景房)の子で中原氏の内舎人兼左衛門府の三等官であることを略称したものである。山田氏にも中原姓を名乗る者がいたことが分かる。
 『太宰管内志(だざいかんだいし)』所収の『紀井宇都宮系図』(築城郡、紀井家の条)には、信房について「従五位下、法名道蟲(賢)、建久六年五月、為豊前ノ守護職云々」とあり、江戸時代から、これが信じられてきた。しかし、昭和に入って「末久文書」(新吉富村成恒)など、古文書の発見によって、信房の豊前守護説に疑義が投ぜられ現在では完全に否定されている。
 宇都宮信房の九州での活動を知ることのできる確かな史料は非常に少ない。豊前関係では、承元三年(一二〇九)の『到津文書』の案文(あんもん)(写し)が唯一のものである。次にそれを示し、内容を検討しよう。
  一、信房(宇都宮)申す、前大宮司公定宿祢、扶持人らを豊前国上毛郡尻高(しだか)浦へ差遣し、右馬允(うめのじょう)秀忠を夜討ち殺害せしむるの由の事
  宇佐宮は余社に異なる宗廟也、大宮司と号すは、尊神に替り奉る重職也、前官・当官は同じ事たるか、しかるに大宮司の扶持人ら悪行を致さば、その仁の名字に対して訴え申すべきの処、惣官の名字を引き載せ訴え申さるの条、正儀に非ざるか、差遣す所見、何事や、大犯を惣官に申付くるの条、還って罪科にせらるるか、かくのごとき次第は、右大将家の御時、殊にその沙汰しおわんぬ。もっとも存知せらるべきの由、資頼(武藤小次郎)に仰せ下さる所也。(中略)
      承元三年十二月六日       相模守義時 御判
    宇佐大宮司(公房)殿
 この意味は、宇佐宮の前大宮司公定(きんさだ)が家来らを上毛郡尻高浦(現新吉富村、浦は国衙領の一種)へ送り、夜討ちして藤原右馬允秀忠を殺害したと、宇都宮信房が訴えた。執権北条義時の裁定は、殺人については、下手人である公定の家来の名を書き上げて訴えるべきで、惣官である大宮司の名をあげて訴えるのは正しくない。このことを豊前国守護人武藤資頼に下達したというものである。