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尻高浦進出など

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宇佐大宮司と藤原秀忠の対立に宇都宮信房が介入し、信房が宇佐宮大宮司を訴えているということは、信房がこのころ既に上毛郡尻高浦へ進出しており、宇佐宮領を蚕食しつつあったことを物語る。
 この史料には、あと二か条ある。すなわち、宇佐宮の神官・社僧の中には、鎌倉殿によって本領を安堵(あんど)され、進んで武役を勤め、大宮司の命令を用いない者がいる。今後は彼らの武役を止め、神事を専ら勤めさせよ。宇佐宮領内での犯罪については、守護使の介入を停止させる。殊に内封四か郷(宇佐郡封戸(ふべ)・向野(むくの)・高家(たけい)・辛島)は「神居の境内」であるから、一円不輸の御封(みふう)である。武士の出入りを禁止し、神領内の犯罪は、軽重を糾明して宮検断にゆだね、謀叛・殺害人については、宇佐宮側が捕らえて守護所へ引き渡し、そのほかは大宮司の計らいであると武藤資頼に仰せ含めているとある。鎌倉幕府の宇佐宮に対する配慮の厚さが分かる。
 あと一つの信房が関係している史料は、嘉禄三年(一二二七)の『宗像神社文書』で「正文は大和史太郎右衛門尉信定申し請う」と裏書がある。後出する西郷信定が信房関係の史料を求めていたらしい。
 承久三年(一二二一)、筑前宗像社領の高向無留木・宮田の二か所地頭職を、承久の乱の恩賞として信房が得た。ところが嘉禄三年、この地と西嶋弥二郎の所領とを交換してほしいと申し出ている。北条泰時は、こちらのほうがかなり狭いので、不思議な申し出であると述べている。何ゆえ、交換を希望したのか不明である。