高僧俊芿(しゅんじょう)の伝記である『泉涌寺不可棄法師伝』に建保五年(一二一七)八月、従五位下大和守中原信房の招請にこたえて、弟子六七人を連れて、俊芿が豊前国に下向し、信房の出家受戒に立ち会い、夫婦の逆修善根を執り行い、一七日間滞在して帰洛(きらく)したとある。
俊芿は肥後国味木庄に生まれ、太宰府観世音寺で受戒した。のち建久十年(一一九九)、宋に留学し、如庵丁宏について戒律を学び、一三年間、南京・北京で学び、研さんを積んで帰国した。
宇都宮信房は出家して道賢と号し、翌年上洛して、荒廃していた仙遊寺を修築して、泉涌寺と改称し、寺領として一七町歩を寄進し、俊芿を住まわせた。仙遊寺の地はもと法輪寺という空海が創建した寺の跡だという。
俊芿は顕密戒律の諸道に精通した高僧という評判を得て、皇室や幕府の人々から崇敬された。順徳天皇や後鳥羽上皇も、彼から菩薩戒を授けられ、執権北条泰時や北条政子も彼を鎌倉に招いて戒法を授けられた。その後、泉涌寺は台・密・禅・浄四宗兼学の道場として栄え、四条天皇(在位貞永元年=一二三二―仁治三年=一二四二)以降、歴代天皇の墓所として、皇室の厚い保護を受けて今日に至っている。
宇都宮信房は文暦元年(一二三四)八月二日、九十九歳(または八十八歳)で没し、上毛郡如法(ねほう)寺(現豊前市)に葬られたと言い伝えられている。
このころ(承元元年=一二〇七)、豊前国分寺の住僧高仁が、山中で、康平(一〇五八―六五)のころの寛賢の埋めた玉を発見したことに対し、高仁に種々の祝物と水田三町歩を与えたと『三僧記類聚』(『福岡県史資料』八)に出ている。