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武藤(少弐)氏の入国まで

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宇都宮信房が活躍した時期にほぼ一致して、九州で活躍した東国武士に武藤小次郎資頼がいる。鎮西奉行人天野民部丞遠景が建久六年(一一九五)ごろ解任され、武藤資頼と中原親能(ちかよし)が派遣された。中原親能は一年足らずで京都守護に転じているから、九州で活動した期間は極めて短い。一方、武藤資頼は大宰府にとどまり、宰府守護所として三前一島ににらみを利かせ、安貞二年(一二二八)八月二十五日、六十九歳で没するまで三〇年の長期にわたって活動した。
 武藤資頼は、没する何年か前に、宇佐大宮司公通や原田種直が任じられた先例がある「大宰少弐」の官職を得て、その子孫もこの官職に就いたから、いつのころからか、武藤氏を少弐氏と呼ぶようになった。
 武藤資頼が、源頼朝に仕えることになったのは比較的遅い。『吾妻鏡』(文治五年=一一八九=正月十九日の条)に、源頼朝が正二位に昇進し、大臣大饗の儀式というものを模擬したとき、若君頼家につける平胡簶(ひらやなぐい)・丸緒の付け方が分からないということがあり、三浦義澄が預かっていた囚人武藤小次郎資頼がその故実に通じていると、三浦義澄が申し出たので、源頼朝は彼の罪を許し、その知識を用いることにしたと述べている。
 『筑紫氏系図』には、平知盛に仕え、兄の武蔵藤原監物(けんもつ)太郎に従って一の谷の戦場にあったとき、梶原平三景時の婿であることを頼んで降人となり、身柄を三浦義澄に預けられていたとある。
 以来、資頼は源頼朝の信任を得て、側近に侍(はべ)り、建久元年(一一九〇)十一月の頼朝上洛、石清水など参詣(さんけい)には「調度掛り」を務めている。翌建久二年には、公事(くじ)奉行人平民部丞盛時とともに、伊勢・志摩両国に派遣され、平家没官領で地頭のいない所々を巡検している。
 『筑紫氏系図』では、文治五年の奥州討伐の時、両城戸(りょうきど)太郎国衡(くにひら)を討ち取った勲功の賞として、建久年間に、岩門少卿(いわとしょうけい)(原田)種直の跡三七〇〇町歩を賜ったと記している。参考になる記述である。