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大宰府在庁官人武藤氏

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豊前守護としての武藤資頼の権限は、前任の天野遠景の時代と異なり、厳しく制限されていて、裁判権がなく、ほぼ大犯(たいぼん)三箇条に限られていた。
 もっとも、幕府はしばしば「鎮西の守護成敗の事においては、右大将家の御時より、別儀をもって定め置かるるの間、代々の御下文を帯し、沙汰を致す所なり。余国の守護の沙汰に准じ申すべからざる事なり」(『吾妻鏡』寛元二年=一二四四=八月二十四日条)と述べて、鎮西の守護には、権限に幅を持たせていた。大犯三箇条とは、謀叛人・殺害人といった重罪人の追捕(ついぶ)と、京都大番役を国内御家人に割り当て、引率上洛する任務であった。ただし、先述したように、宇佐郡のいわゆる内封四か郷は守護不入の地として、謀叛・殺害人の追捕のための入部さえ許されないような地域もあった。
 武藤資頼は非御家人の訴訟問題については、「宰府執行(しぎょう) 藤原朝臣」と加署して、大宰府在庁官人の最高責任者としての地位を占めた。
 また、御家人に対して、『末久文書』に見られるように、「宰府守護所」として、訴訟当事者を大宰府へ召喚して、調書を作成し、これを六波羅探題や鎌倉へ送り、上からの通達を取り次いだり、京都や鎌倉への召喚の催促や、判決の執行に当たった。
 『太宰管内志』の「草場村に筑紫守護人屋敷と云ふ物あり、又は勅使屋敷とも云ふなりと云へりき。守護人と云ふは宇都宮大和守信房を云ふか」とある「筑紫守護人屋敷」とは、「宰府守護人屋敷」の意味で、武藤少弐氏の代官所、すなわち豊前守護代の屋敷と解釈すべきではあるまいか。少弐資頼が豊前に出張することがあれば、この屋敷に滞在したことから、この伝承が残ったのであろう。