ビューア該当ページ

〈野仲氏〉

579 ~ 580 / 1391ページ
『戸原(とばる)野中系図』によると、宇都宮信房の弟重房が、下毛郡津民荘(耶馬渓町)の地頭として入部し、やがて野仲郷司職を買得するか、入り婿するかして、平野部の宇佐宮封郷に進出して成長を遂げ、大内氏時代は下毛郡代、大友氏時代は秋月氏と結んで戦国大名にのし上がったが、豊臣秀吉に反抗して、城井氏と前後して滅亡した。
 信頼できる史料で確認される野仲氏は、元久(一二〇四―〇六)・承元(一二〇七―一一)・天福(一二三三―三四)のころ、宇佐郡佐野村へ、在庁兼盛と安心院氏との訴訟に使節を命ぜられた野仲郷司助道が御家人であるから、宇都宮氏らしい。当時の宇佐宮封郷の郷司職は、平安時代の徴税請負人的存在と異なり、宇佐宮寺の祭会に定められた雑仕女などの夫役を納めたり、田畑売買の立会人となるような、形式的なものとなっていた(工藤敬一『九州荘園の研究』)。
 また仁治(一二四〇―四三)のころ、野仲郷司道俊が豊後国田染(たしぶ)庄恒任(つねとう)名を宇佐吉基に売却している。道俊は下毛郡山国郷得永名井堀村を知行していたことが知られる(『野中文書』)。『鎮西宇都宮氏の歴史』を著した則松弘明氏は道俊が野仲郷司職を最初に手に入れた宇都宮氏であろうと推察しているが、助道までさかのぼりうるのではあるまいか。
 蒙古襲来に際して絵詞(えことば)を残した竹崎季長(すえなが)の親類として「豊後国下毛郡野中村」の野中太郎長季がいる。従来、豊後は豊前、野中村は野仲郷の誤りとされてきたが、野仲郷司が単騎で合戦に参加するような脆弱(ぜいじゃく)な武士であろうかという疑義が出されている。野中太郎長季は肥後の武士ではないかという説は説得力を持つ。
 また、弘安九年(一二八六)の『蒙古合戦勲功地注文』(『比志島文書』)に、薩摩国鹿児島郡司職十分一を得た野仲左衛門三郎宗通法師がいる。
 弘安二年、宇佐郡の中津尾寺領を刈田狼藉(ろうぜき)したと訴えられた野仲二郎入道正行は兵庫馬次郎兵衛資時(すけとき)と冠師野(かぶしの)村・中津河岩木一町などをめぐって訴訟し、和与した。このころ、御家人野仲郷司道行の舎弟如静法師が野仲・大家両郷境の自見名田畠所従を濫妨(らんぼう)したと宇佐宮から訴えられ、野中道性房円空は、数百騎を率いて野仲郷全徳(ぜんとく)・世永(よなが)両名を押領したと訴えられ、御許山座主職(おもとさんざすしき)を改替された。鎌倉末期、野中次郎太郎道雄は下毛郡麻生郷藍原屋敷二か所を押領。知行していた自見名および今永田地を神領興行令によって宇佐宮へ返還を要求され、抵抗した。
 このように野仲氏の庶子は、積極的に野仲郷の宇佐宮神官の名田に関与して、宇佐宮と対立する勢力の中心に座り、しだいに野仲郷一円の領主化を進めた。延文元年(一三五六)、南朝方に降った野仲郷司跡一二〇町歩が長門国一の宮と二の宮へ一色直氏によって寄進されている。