ビューア該当ページ

〈山田氏〉

580 ~ 582 / 1391ページ
『紀井宇都宮系図』では、宇都宮信房の弟政房が宇佐弥勒寺領山田庄八〇町歩の地頭となり、成恒・中間(なかま)・高野氏を分出したとなっている。『末久文書』(新吉富村成恒)に登場する山田氏を系図にすると、次のようになる。

[系図]

 史料上に確認できるのは政吉が最初である。仁治元年(一二四〇)の『山田村宗像八幡社棟札』(『福岡県史資料』九)に
  仁治元甲(庚)子冬十月廿一日、本宮建立、同二年夏(ママ)五月造営工終、同十五日遷宮、願主藤原政吉并沙弥観蓮、同長子左衛門少尉政範等也
と、沙弥観蓮とともに、宗像本宮建立の願主となっている。沙弥観蓮は、山田左衛門尉と称し、舎兄成恒太郎入道西迎が田部太子らから買得した公領吉富名内の勤二郎・秋成・是末・多布成末などの名田を譲られたと主張して、正嘉二年(一二五八)のころ、上毛郡司俊忠と争っている。
 観蓮の子と推定される政範は、吉富名内の秋成・底無二郎丸をめぐって西郷太郎左衛門尉信定と争い、弘安三年(一二八〇)、壱岐太郎左衛門尉といわれた宇都宮通房の調停によって和与した。
 成恒太郎右衛門入道道円(政範の子政業カ)は、正安元年(一二九九)、徳政令をめぐる訴訟の使節を大和太郎左衛門入道(西郷信定カ)とともに命ぜられて、下毛郡へ赴いている(『到津文書』)。そのころ、彼は異国警固石築地役を山田庄内の知行分と成恒名内分とを一緒に勤めた証明書を残している。
 山田中内左衛門尉政盛は、嘉元三年(一三〇五)ごろから史料によく登場する。彼は蒙古合戦の恩賞として、城井頼房らとともに肥前国神崎庄の一分(ぶ)地頭職を得ており、筑前国怡土庄友永方や下毛郡野仲郷への使節を命ぜられている。
 山田美濃守政朝は、正平二十年(一三六五)ごろ、宇佐弥勒寺領大野井庄・畠原下崎庄・屋山保へ何回も別符安芸守種此(たねこれ)とともに使節を務めている(『八幡善法寺文書』)。山田氏惣領であろうと思われる。
 宇都宮友枝壱岐孫三郎政貞の代官子息政賢(かた)は、貞和六年(一三五〇)十一月、本領である山田庄安光名・友枝村一方地頭職を足利直冬に安堵されている(『野上文書』)。友枝氏が宇都宮一族であることを強調した唯一の史料である。『紀井宇都宮系図』では、宇都宮通房の弟壱岐弥太郎信範を友枝氏の祖としているが山田庄内に本領があり、「政」の一字を用いる山田氏の例から、友枝氏は山田氏の庶家であると考えられる。もっとも、同年十二月、友枝孫二郎宗高と一族一二人が、因幡国冨木郷・日置郷地頭職を足利直冬から宛行われている(『余瀬文書』)。これより前の嘉暦三年(一三二八)に友枝孫次郎宇佐宗世が、神官重頼の証文紛失に証判を加えている(『野中文書』)。宗世は宗高の親らしい。宇都宮友枝氏のほかに、以前から宇佐友枝氏がいたことがわかる。
 大内氏時代の山田氏は、応仁の乱後は、歴代安芸守を称しており、大内氏の氏寺氷上山興隆寺の二月会大頭役を勤め、段銭奉行を務めている。
 大内氏が滅ぶと、山田氏は毛利氏、秋月氏と結び、大友義鎮に敵対して滅ぼされ、亡命した安芸守隆朝は毛利氏の食客となって豊前方面の調略に従事し、黒田氏の入封の際も、帰服せず攻め滅ぼされた。