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〈西郷氏〉

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西郷氏に触れた著述は少ない。『紀井宇都宮系図』では、宇都宮信房の弟業(なり)政を祖として政家―有家―道有と続くとしているが、史料上であとづけることはできない。鎌倉時代に西郷氏を称した例を近国に求めると、周防国で大内氏の代官に西郷次郎(松岡久人『大内義弘』)、肥前国の西郷三郎幸朝や西郷三郎兵衛入道、肥後国に菊池隆泰の弟隆政が西郷太郎と称した(『八幡愚童記』)。
 豊前では、西郷太郎左衛門尉信定が、建治三年(一二七七)のころ、公田吉富名内の秋成・底無二郎丸名をめぐって、山田左衛門尉政範と訴訟し、宇都宮通房の調停で和与した。信定の名は『宇都宮紀井系図』の如法寺氏に信房―信政―資信―信定と見える。また、『宗像文書』には、北条泰時から大和入道(宇都宮信房)あての書状を大和史太郎右(左カ)衛門尉信定が譲ってくれるよう強く望んだため渡したという。信定が大和氏を称したと考えられる。そうなると、正安元年(一二九九)八月、山田道円とともに、下毛郡へ使節を命ぜられた大和太郎左衛門入道観□(仏カ)は信定ということになる(『到津文書』)。大和氏といえば、貞永元年(一二三二)閏九月十七日付の召文に大和太郎兵衛尉時景が、上毛・下毛両郡の相伝地頭職知行のうちの名主・下作人などが新儀を巧み、地頭に従わないと訴えたとある。時景は豊後守護大友能直の子で、一万田氏の祖とされるが大和壱岐前司景房の養子となったという。しかし、景房の養子ならば壱岐氏を称するのが自然で、大和氏を称するのは信房の養子と考えるべきではなかろうか。
 大和氏が西郷氏や如法寺氏と繫(つな)がるならば、正和二年(一三一三)のころ、上毛郡三毛門の田六反を宇佐宮へ返還させられた大和八郎信茂(『宮成文書』)、嘉暦元年(一三二六)のころ、上毛郡成恒名地頭職安堵に関与した大和右近将監(『相良家文書』)などが確認される。
 西郷兵庫允顕景(ひょうごのじょうあきかげ)は、豊前守護少弐頼尚の被官となって守護代を務め、大保原合戦(筑後川の戦い=一三五九年)で、頼尚が大敗したとき、戦死した。
 大内義隆の一字をいただいた西郷遠江守隆頼は毛利氏・秋月氏の調略を受けて大友義鎮に服従せず、何度も反旗を翻したが、秋月・高橋・長野氏の連合勢力に圧迫されて滅亡したらしい。
 豊前以外の宇都宮一類と称する武士としては、筑前山鹿・花尾城に拠(よ)った麻生氏、筑後柳河城に拠った蒲池氏、伊予大洲城に拠った宇都宮氏、因幡鹿野城に拠った宇都宮氏があり、戦国時代の末まで栄えた。いずれも関東宇都宮氏の系譜であって、豊前宇都宮氏とは直接結び付かない。

宇都宮紀井氏系図