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「豊前国図田帳断簡」の荘園

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建久八年(一一九七)の「豊前国図田帳断簡」(『到津文書』)に次の記述がある。これに基づいて、鎌倉時代の土地制度を考えてみよう。
   建久八年六月
  [   ](一京都郡カ)北郷五百七十五丁五反廿内彌勒寺領二百六丁
  蒭乃庄八十丁 宇原庄十五丁 加納得善名百十一丁
   苅田二郎丸六十丁 荒津四郎丸四十丁 貫勝円六丁 豆勝円五丁
  [ ](弓カ)削田庄 宇佐宮領百四十丁
  稲光○(五)十丁 薬丸十五丁 久光七丁 新香法師八丁 得永廿二丁 秋吉十五丁 恒松
  五丁 武則五丁 安松二丁 本香法師十丁 糸永一丁 山金丸五十丁 [ ]永三丁
  [ ]宇佐宮領 津隈庄四十丁 [万燈會地子米十七石五斗六升内弁分八石七斗四升庄  天平十九年始行]
  [  ](彌勒カ)寺領百九十五丁
    八十町 畠原庄十五丁 大乃井庄内十五丁
   加納得善名八十五丁
  勝円廿五丁 得万三丁 金丸三丁 五郎丸三丁 大乃井例名廿五丁
 京都郡北郷は現在の苅田と行橋市西部にあたる。この史料では、蒭乃(くさのカ)庄・宇原庄・津隈庄・畠原庄といった荘園と、加納得善名・大乃井例名といった名田、苅田二郎丸・荒津四郎丸といった地名のみを記したものに分類することができる。
 荘園は、太政官や民部省の許可を得て立券し、中央の権門を領家・本家と仰いで、私領として公認された土地で、免税措置がとられた。
 名田は荘園内にも国衙(こくが)領にもみられる。概して、近畿地方は一~三町歩の規模で、家族で経営できる程度の小規模なものである。九州や関東のような辺境になると一〇~三〇町歩にも及ぶ大規模なものとなる。この場合は自分の屋敷内に住む下人・所従だけでは耕作しきれないから、近辺の小農民に請作させ、年貢・公事・夫役を徴収することになる。
 名田は、国衙領の場合、郡司・郷司をはじめとする国衙の役人たちが徴税を分担して請け負う。別の史料には、保・浦・別符・村・名と表現して現れる。これを京都郡・仲津郡について検出すると、第1表のようになる。
 もっとも、鎌倉末期になると、庄名が消失して庄内の名のみが残ったり、名(みょう)が村や保に変わったりする。また平安末期には国衙領である別名・浦・別符・保・村の税の一部または全部が、諸種の事情によって、宇佐宮や宇佐弥勒寺などへ寄進され、その私領と化す傾向があった。例えば、宇佐宮の定例の神事や社殿造替、弥勒寺の定例の仏会は国家の責任において行われてきた。平安末期になると、国衙からの納入物が滞るようになったので、地域を指定して一定量の税の物をその寺社へ納めるようになったが、それさえ滞る場合、寺社側から役人が派遣され、その地に住居を構えることになる。こうして国衙領が私領に変わってしまう例が少なくなかった。