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宇佐宮と弥勒寺の荘園

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豊前国の国衙(政庁)が所在する京都郡・仲津郡は、国衙領が最も多く存在するはずであるが、鎌倉時代には、宇佐宮領・弥勒寺領の方が国衙領を超えるほどになっている。鎌倉幕府が成立したころの記録と考えられる「宇佐宮神領大鏡」(『到津文書』)によると、京都・仲津両郡内の宇佐神領として、津隈庄七〇丁(康平四年=一〇六一成立)、仲西郷一四丁、仲東郷三三丁、仲北郷(弥富三二丁、久永四丁、秋吉一・二丁)三七丁余、京都南郷一一・三丁、京都北郷七五・二丁、伝法寺庄(本庄四〇丁、加納三〇〇余丁)三四〇余丁、仲東郷城井浦二八七・八丁、仲東郷横瀬浦二・七丁の合計八七一丁余が書き上げられており、同じころの記録と考えられる「弥勒寺喜多院所領」(『石清水文書』)の中に、蒭野(くさのカ)庄六〇丁、宇原苅田名田庄田一〇丁、畠原庄[庄田八丁、名田八丁]、大野井庄[庄田四〇丁、名田八〇丁]、伝法寺、豆勝円三〇丁、菊丸名田七丁、荒津別符四〇丁、記(喜)多良野名一三丁、入学寺五〇丁、流末絹富四〇丁、同益枝[本三〇丁成房、末八丁永意]、全丸六丁、同香丸一〇丁、三郎丸五丁、小犬丸七丁、今男丸一〇丁、法師丸三丁、菩提院八丁、屋山福丸七丁、仲臣今男六丁、光国八丁、延永名田一〇丁とみえ、なお若干の所在不明地があるとはいえ、五〇〇町歩以上が書き上げられている。両者を合計すると一三〇〇町歩を超す。京都・仲津両郡で田数三六〇〇町歩(京都北郷の田数五七五町をもとに推計)とすると、約三〇パーセントが宇佐宮寺に関係ある土地になる。しかし、宇佐宮や弥勒寺の荘園といっても、半不輸の庄園といって、租の半分だけが宇佐宮寺に納められる場合もあり、また不輸の権を得ていても、不入の権がなければ、租の全部を領家である宇佐宮寺へ納められるが、荘園内に住む農民から庸・調・雑徭(のち年貢・公事・夫役へ変化した)などの課役を国衙が収取することになる。また本来国衙領である保・浦・別符・別名は、税の一部が宇佐宮寺へ納められるのであって、残りの税は国衙へ納められ、国守以下の国衙役人の手当や中央政府へ送られるのである。このように、荘園と国衙領が混在する平安中期から鎌倉時代にかけての土地支配体制を荘園公領制という(第1表・第1図参照)。
第1表 国衙領と庄園
公私単位仲津郡京都郡
国衙領仲北郷・仲東郷・仲西郷125.5町南郷・北郷・窪郷
城井浦287町余・横瀬浦2.6町・高屋浦・幡野浦
平嶋保屋山保・光国保8町
下長江村・大豆俵村・元永村高久村
別名記多良野名13町・稲同名・流末絹富名38町菊丸名7町・富光名8町・得永名・延永名10町
流末益枝名38町・今男丸名10町・小犬丸名7町恒光名6町・屋山福丸名7町・入学寺名50町・今富名
三郎丸名5町・法師丸名3町・仲臣今男名10町秋吉名・山金丸名・薬丸名・久光名・勝円名
香丸名10町・弥富名32町・立石名得善名等
私領庄園大野井庄120町・天雨田庄80町 伝法寺庄加納300余町津隈庄70町・黒田庄・窪庄・蒭野(くさの)庄80町・宇原庄15町
苅田庄60町カ・堅嶋庄・畠原庄・下崎庄・京都庄
吉田庄70町
別符荒津別符40町・津隈弁分


第1図 中世の公領と荘園

 しかし、鎌倉時代になると、国衙や幕府が把握した荘園・公領の田数は固定し、したがって、課税対象も固定するから、一定量の税を国衙や領家へ納めれば、荘園や公領内で新田が開発されて田数が増加し、徴税量が増えても、開発領主である荘官や郡司、郷司、名主の私腹を肥やすことになったと考えられる。