豊津町に接した今川の対岸で馬ケ岳の北麓を中心に成立したのが天雨田庄である。この荘園を全国に紹介したのは、東京大学史料編纂(さん)所に勤務する山口隼正氏である(『中世九州の政治社会構造』吉川弘文館)。東京所在の「本間文書」にこの荘園について関係ある史料が何点か見いだされるという。
南北朝初期(暦応三年=一三四〇)のこの荘園の規模は八〇町歩。戦国末期(天正十年=一五八二)では六五町歩。明治の地積は天生田村田五六町歩、畑屋敷一九町歩で計七五町歩余となっていて、鎌倉幕府が把握した八〇町歩は、実際では現在の天生田集落よりかなり広範囲であっただろうと考えられる。
史料上の初見は鎌倉末期の延慶三年(一三一〇)で、この荘園の荘官の一つである公文職を所持していた次郎兵衛尉憲行が、公文職に付随していた武松名と公文職を、孫七郎行政へ譲り、元応二年(一三二〇)、安東鶴益丸へ譲っている。鶴益丸は地頭代安東右衛門尉助泰の子息であろうか。
この譲渡に際して、給主天雨田亦次郎が立会人となり、安東助泰が安堵状を書いた。この場合、給主とは地頭の又代官、地頭は北条得宗(とくそう)家であろうと推定される。すなわち、地頭代安東氏一族が天雨田庄の荘官職の一つと付属する名田を買得か、養子縁組かによって取得し、この荘園に根を張っていったのである。
天雨田庄が、どうして北条得宗家領となったかは不明である。考えられることは、少弐景資(かげすけ)か、その被官が地頭で、岩門(いわと)合戦で没官されたというケースである。いずれにせよ、この荘園の位置が、豊前の国衙に隣接し、鶴の湊から今川をさかのぼって田川郡や大宰府へと通ずる官道の要衝にあたることに北条氏が着目したようである。鎌倉末期、北条氏は全国的にこのような要衝の地を押さえて、その経済的基盤を強化していったといわれている。
その北条得宗家所領の地頭代として全国に発展したのが安東氏である。
なかでも、安東平右衛門入道蓮聖は有徳人(うとくにん)(富裕人)としてよく知られている。彼の名は、九州でも、豊後国佐賀郷代官として見いだされる。
豊後では国東郡吉丸名(豊後高田市)が得宗家領であり、安東氏が代官として入部し、土着した一族が国東半島西部で繁栄して今日に至っている。南北朝時代に入ると、天雨田庄は鎮西管領(かんれい)一色範氏の所領となり、大内氏が滅亡する十六世紀半ばまで一色氏が維持し続ける。もっとも、大内氏が守護請所として、一定量の年貢を京都の一色家へ送り、余得分は代官の得分として給人(被官)に与えた。
一方、安東氏は北条氏滅亡後もこの地に生き延び、北方の大野井庄にも進出して八幡善法寺に訴えられ、十六世紀には、宇佐宮放生会の神事奉行を大内義隆から命ぜられている。