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〈大野井庄〉

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この荘園も天雨田庄と同じように成立の事情は明らかでない。鎌倉幕府成立のころの記録「弥勒寺喜多院所領」(『石清水文書』)の中に、「大野井庄[庄田四〇丁 名田八〇丁]」と初見する。この場合の庄田とは太政官か民部省へ申請して立券荘号された分、名田とは、立券後に開発された田地や、公田が弥勒寺へ施入されたため、大野井庄に編入されたものであろう。これと似た例として、伝法寺庄がある。この庄は、「宇佐宮神領大鏡」に「本庄四十町、加納三百余町」とある。本庄が立荘時の田数、加納は「新加納田」の略称である。その事情を次のように説明している。
 宇佐宮祝大神宮方(ほうりおおがのみやかた)の所領が、大宮司宇佐氏によって宇治僧正へ寄進されて本所と仰ぎ、立券荘号(不輸租の荘園となること)した際、築城郡の桑田・大野両郷の常見名田と城井・幡野・三箇社などまで伝法寺庄に編入されたという。したがって、伝法寺庄は築城郡南部を中心として、犀川町の一部と当町南部をも含む広域的な荘園となった。
 先述した「建久図田帳」には「大乃井庄内十五丁」「大乃井例名廿五丁」が京都郡北郷に含まれており、この荘園が仲北郷との境界線上に成立したことが分かる。
 正安二年(一三〇〇)、石清水八幡宮の別当尚清が八幡善法寺を創建し、不断愛染王(あいぜんおう)供料(くりょう)として当庄をこの寺へ寄附した。この事が遠因となって、南北朝期に弥勒寺と善法寺が訴訟して、国衙を巻き込んだ争いが十数年間も続くことになった。
 すなわち、文和三年(一三五四)、弥勒寺領三ヵ名を下崎庄に混じて、安東孫次郎入道助阿らが違乱しているという訴えがあり、守護少弐頼尚が南朝方となった正平十一年(一三五六)には、守護代西郷兵庫允顕景が当庄を押妨しているという訴訟が起こった。守護頼尚の意を受けた西郷顕景は、従人などを使って神官・社僧を殺害したとして、宇佐宮寺は神輿を動座し、寺社を閉門して抗議した。懐良親王は頼尚の守護職を解任し、国司五条良遠を派遣して、守護には頼尚の子頼澄を起用し菊池武光の弟武尚を守護代に任じて豊前支配に当たらせた。
 しかし、正平十六年(一三六一)には、畠原下崎庄・大野井庄・菊丸保などを、新田田中蔵人や国衙が押妨したという訴えが出された。
 懐良親王は守護少弐頼澄をして、弥勒寺へ沙汰し渡させた。
 ところが、二年後またも大野井庄・畠原下崎庄・屋山保で、給人が押妨しているという訴えが出された。
 懐良親王は野仲郷司左近将監政道や久下七郎入道本光、山田美濃守政朝、別符安芸守種此らを使節として寺家への打ち渡しを命じた。
 正平二十年(一三六五)、今度は守護少弐頼澄・守護代菊池武尚が違乱したと訴えて、宇佐宮の神輿を動座して、当庄以下の返還を要求した。
 この年、弥勒寺はこの近辺の寺領の知行実態を次のように書き上げた。
 一 御所(懐良親王方)御手知行分
   弘山庄(宇佐郡) 平周防守并菊池武光従人荒瀬幸明
   大野井庄 熊皮跡 久木原忠光 典厩(五条良遠)御手
   畠原下崎庄 新田々中蔵人  屋山保 典厩御手
   菖(ママ)野庄 大蔵一家并林原出定(雲カ)
 すなわち、大野井庄は国司五条良遠方が知行し、畠原下崎庄は新田一族の田中蔵人、屋山保は国司方、蒭野(くさのカ)庄は大蔵一族(久保氏カ)などが知行し、年貢所当を納めないと訴えているのである。新田田中蔵人らは、荘官の一つである預所に任命されたと称し、善法寺側代官と対立した。
 なお、田中蔵人は当町田中の武士かと考えたが、『太平記』に越後国に住む新田一族と出ているから、懐良親王の側近らしい。
 正平二十一年(一三六六)には、善法寺と弥勒寺が対立し、訴訟となった。弥勒寺所司が、在地の安東孫次郎入道助阿、舎弟三郎二郎入道生阿と組んで、これらの荘園を押妨していると訴え出たのである。
 このような訴訟を連年続けたあと、大野井庄は善法寺に戻されたらしく、大内氏時代には守護請となって、大内氏家来が代官職を与えられ、年貢の一部が善法寺へ送られるようになっている。
 次に、大野井庄の内部をのぞいてみよう。
 大隅国の禰寝(ねじめ)家に、大野井庄田所名に関係ある史料が残っている。
 田所名は田地二五町五反、畠地九町三反、在家一〇宇という大規模名田で、御家人都法眼祐秀の子息鋤崎次郎入道蓮覚が、肥前房良秀という者へ売却したらしく、永仁五年(一二九七)の徳政令によって、この地を取り戻した。ところが、都三郎入道生千の子息又三郎種秀の訴訟によって、この名田は姪(めい)の讃阿と三人で分配するよう鎮西探題の裁許があった。
 二郎蓮覚は田地一二町七反二〇代 畠地四町六反三〇代 在家五宇、
 三郎生千は田地 六町三反    畠地一町五反    在家二宇、
 讃阿は  田地 二町      畠四反
が与えられ、残りは蓮覚が領知することになった。
 都氏は、京都郡鋤崎に居を構える郡司の一族で、在庁官人として国衙領の一部の徴税を請け負っていたが、その名田が大野井庄に編入されたのであろう。荘官には預所・田所・公文・弁済使(べんさし)などがあり、鋤崎氏はその一つである田所職を所持していたのであるが、蒙古合戦のころ零落し、これを売却するに至ったらしい。