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〈京都庄〉

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鎌倉後期の『到津文書』に京都庄について次の史料がある。
  □(下カ) 造御炊殿行事所
   早く先例に依り、本家の御下知の旨に任せ、平均に催促し造り畢(おわら)しむべき料庄等の事
  上毛庄 下毛庄 宇佐庄 京都庄 築城庄 田河庄 規矩庄
   副え下す  本家の御下知
  右件の庄は、限りこれ有る御炊殿料庄として勤造せしめんが為に、去る安元年中をもって、一円庄号の神領と成さしむの以降、破壊の期に臨むごとに造勤せしむるは例也、しかるに近曽かの社朽破せしむといえども、料庄の名主ら事を左右に寄せ、難渋せしむるの条、神慮測り難きの間、子細を本家に申さしむるの刻、御下知此の如しと、
   早く先例に依り、御下知に任せ、不輸・別納を嫌わず、定田・免田を論ぜず、平均に催促せしめ、且は済否を糺明し、且は造り畢らしむべきの状、仰する所、件の如し
     弘安元年十二月四日
  太宮司宇佐宿袮(公有)(花押)
(原文は漢文)  

 この意味は、郡名を冠するこれらの庄園は宇佐宮御炊殿(おいどの)(下宮)造替の費用を賄う庄園として、安元元年(一一七五)に成立し、破壊に及ぶときに造り替えを命ぜられることになっている。近来は、荘園内の名主らが何かと言って難渋するので、本家から改めて、不輸・別納・定田・免田の区別なく、造営費を納めさせるようという命令が出されたのである。
 右の史料に「仲津庄」が見えないのはなぜであろうか。京都郡と仲津郡の区別が不明確になっているのであろうか。仲津郡の常見名田の多くが伝法寺庄に組み込まれたことは先述したが、そのためであろうか。
 常見名田については、「宇佐宮神領大鏡」に詳しい説明がある。その史料を掲げて、京都庄の性格を探ってみよう。
  国々散在の常見名田
  仲西郷 用作八反 末武三反 時末五反 公田十二町四反廿
      所当加地子稲二百四十九束四把之外、宮召物無き也
  仲東郷 丁別米召田六丁 加地子田公田廿六丁九反
      所当加地子稲五百三十八束也 外に宮召物無き也
  仲北郷 卅七丁二反 已国半輸之時、宮召加地子定
   弥富 田数    国半不輸之時、宮召加地子定卅二丁
   久永 田数    国半不輸時、宮召加地子定三丁九反廿
   秋吉 田数    同時、召加地子定一丁二(反)、卅
  京都(郡脱カ) 田数 国半不輸時、宮召加地子起請田八十六丁五(反)、卌(四十)
   南郷 田数    加地子定時、十一丁三(反)、十
   北郷 田数    同時、七十五丁二(反)、廿
  件の常見名田と称すは、多分は治開田也、また甲乙の領主の寄せ奉るもの少々これ有り、半不輸之地においては、毎年検田使を入れ勘(かんが)え、起請田(きしょうでん)六百五十丁と号すは、官物、丁別准絹二疋、全田官物、准絹八疋、国庫に弁済するの外は、一切、他役を停止し、偏に神役を勤仕す(彼時、宮召物加地子、丁別雑米(ママ))、爰(ここ)に当宮御炊殿の一院は、往古国役において破壊に臨むごとに勤造せしめ来るの処、国衙は事を左右に寄せ四十余箇年の間、彼の造営を致さざるの間、破壊に及ぶの日、当国常見名田等、永く不輸の神領として、件の一院を勤造すべきの由、奏聞を経るの日、安元元年壬九月廿八日をもって、請により、院の庁の御下文を下され畢(おわん)ぬ。則ち、仮殿を造営し遷宮を申し行う。彼の一院を勤造し、還宮を申し行なわんと擬(ほっ)するの期に及び、国司藤原朝臣成光、院宣を申し成すと称し、停廃せしめんと擬するの時、重ねて奏聞を経る日、国司の妨げを停止し、不輸の神領たるべき由、治承二年壬六月  日、重ねて院庁御下文并大府宣を成し下され了ぬ、剰(あまつさ)え、向後のため奏聞を経て、治承四年をもって官宣旨を賜り畢ぬ。治承四年十一月 日をもって、宰府の覆勘を請い、同五年二月のころ、還御を申し行い畢ぬ。ここに文治のころ、国衙、停止すべきの由、奏聞を経るの日、社家子細を言上の処、永く不輸の神領たるべきの由権中納言藤原朝臣宗家、宣奉勅の官宣旨を成し下され畢ぬ。よって不輸の神領となる所也
 長い引用となったが、墾田や私領を寄せ集めて、宇佐宮の下宮の社殿の造替費用を負担する名田とし、はじめ半不輸や起請田で不安定な料庄を安元元年(一一七五)、不輸の荘園としたが、その後、国司からしばしばこの特権を停止する動きがあったが、その都度、これを退けてきたという。
 ここで、用作とは自家用作地というほどの意味で、名主や領家の手作り地、加地子とは地子=年貢に加算された地子、名主得分と考えられる。国半輸とは、租稲の半分は国庫に納め、残る半分を国衙から宇佐宮へ渡すという意味で、あくまで、国衙領として扱われるのであるが、宇佐宮側は、半不輸の神領と考えている。
 鎌倉中期の仁治二年(一二四一)の「散田帳」(『到津文書』補遺)では京都庄は一五の名田で構成されていた。その一つに稲光名五〇町歩がある。嘉禄二年(一二二六)、権大宮司宇佐公政と舎兄公隆(高)がこの名田を争っている。大宮司公隆が高階氏の代官と称して押領したと訴えられた(『到津文書』)。もっとも、「建久図田帳」では稲光五〇丁とあり、京都庄の呼称はない。
 南北朝初期の貞和二年(一三四六)、宇佐権大宮司兼祝(ほうり)である大神宮義と神主今永越後守宮居(みやい)(宮義の孫)の両人が、京都郡稲光名の定米を銭五貫文で尼田部妙円に売却している(宇佐宮『永弘文書』)。このころには京都庄は存在しなかったと思われる。