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〈津隈庄〉

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宇佐宮本御庄一八か所のうち、豊前国六か所の一つとして、「宇佐宮神領大鏡」にその成立事情を記している。それによると、田数七〇町歩、用作一町九反の規模で、京都・仲津両郡に散在する御封田を国田と交換して立荘した。康平四年(一〇六一)、豊前守業任(なりとう)のころという。「建久図田帳宇佐宮領注文」(『到津文書』)には、
  宇佐宮領津隈庄四十丁 万灯会地子米十七石五斗六升内
             弁分八石七斗四升[  ]
とあり、前記の七〇町歩と開きがある。なぜであろうか。
 仁治二年(一二四一)の「散田帳」には「津隈庄[同弁分六名 庄分六名]」と津隈弁分六名、津隈庄分六名で構成されていた。名田については、正平十三年(一三五八)ごろ、弁分のうち、薬丸・三郎丸・小屋敷の三名を赤孫四郎・柳田兵庫助頼範が濫妨(らんぼう)していると、宇佐宮政所総検校益永内輔が訴えているので、名称が知られる。その四年後、同弁分犬丸名を宇都宮常陸前司守綱の扶持人薬丸三郎左衛門尉が違乱しているという訴えがあり、調査を命じている。薬丸氏は宇佐宮楽所検校丹波氏の一族で、上毛郡多布郷薬丸名の名主である。津隈弁分、薬丸名とも関連があるのかどうかは不明である。
 文明七年(一四七五)、少弐氏被官仁保弘名が津隈四〇町の地を池永修理亮へ打ち渡している。池永氏は下毛郡の薦社(こものやしろ)の神主の一族で、野仲郷を中心として勢力を増していた武士である。七年後、大内政弘は毛利弘元へ池永彦次郎先知行分二〇町地を与えた。大内政弘が応仁の乱後、京から帰国して豊前国を奪回したため、津隈庄の給人も変わったのである。
 それから一五年ほど後、大友親治が豊前に侵入し、田原氏庶家の千代若丸へ津野隈庄内の三〇町をはじめとして一五五町分を預け置いている。田原氏は京都郡代または馬ケ岳城督を命ぜられていたのであろう。
 天文二十一年(一五五二)の「名寄帳」(『平賀文書』)には、庄分名として、恒富・友次・米松・安恒・光本・米光・宗正・老園・芝原・木下・小園・桑本の一二名田が出ている。鎌倉時代の六名田が分解し、新たに数名が出現している。惣田数は四一町一反余、得田九町一反余の得米二四石から一六石三斗を山口へ送っている。蓑島の藤左衛門尉が運送した。平賀氏は大内義長から津隈庄代官職を与えられていたのであろう。