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フビライの使者と日本の対応

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モンゴルの皇帝フビライは高麗を完全に服属させると、一二六六年(文永三年)、黒的らに朝貢を促す国書を持たせ、日本に向かわせた。
 高麗はモンゴルの使者を巨済島まで案内したが、海上はるかに対馬を見て引き返した。翌年、フビライは高麗に命じて使者を大宰府の少弐資能の下へ送り、国書を手渡させた。国書には、使節を送って親睦を図るべきことを求め、通交しなければ武力征服をする旨が書かれていた。
 少弐資能は国書を鎌倉に送り処置を仰いだ。幕府は六十三歳の執権北条政村とまだ十八歳の時宗がその職を交替して難局に対処することにした。幕府は先例に照らして、国書を京都へ送った。朝廷では、連日論議して一か月以上過ぎ、回答を行わないことに決した。

北条時宗の花押

 数か月待っても回答を得られない高麗の使者はむなしく帰国した。
 モンゴルの使者は一二六八・一二六九年と日本へやってきたが、幕府の態度は変わらなかった。一二七一年には、趙良弼(ちょうりょうひつ)を使者として、最後通告ともいうべき国書を日本へ届けさせた。趙良弼は四年間にわたって高麗と日本の間を往復したが、徒労に帰した。