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元の使者の処刑と元の再襲来

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一二七五年(建治元年)二月、フビライは杜(と)世忠らに国書を持たせ渡海させた。この度は、大宰府へは行かず、四月十五日長門国室津に着き、京都へ行こうとした。しかし、大宰府守護所の手によって、鎌倉へ送られ、竜ノ口で斬首(ざんしゅ)された。
 一二七九年(弘安二年)、懸案の南宋を滅ぼしたフビライは、日本を属領化する目的で前回に五倍する兵力を準備して渡海させることにした。
 モンゴル・高麗・華北人からなる東路軍の兵四万、船九〇〇隻に加えて、南宋の兵一〇万、船三五〇〇隻の江南軍は、阿剌罕(あらかん)を総司令官として、忻都(きんと)・洪茶丘(こうさきゅう)や范文虎(はんぶんこ)の指揮下に、日常調度や耕作用具までも準備して、長期戦をも想定していた。
 東路軍は、一二八一年(弘安四年)五月三日に合浦を出発し、対馬・壱岐を屠(ほふ)り、六月初旬、博多湾頭の志賀島(しかのしま)に一部が上陸した。一隊は長門方面へも姿を見せた。