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戦いの様子と元軍の壊滅

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日本軍は陸上からと、海上から志賀島へ向かい、果敢に戦いを挑んで、東路軍を苦しめた。
 志賀島で敗れた東路軍は、伊万里湾の鷹島へ移動したが、六月末江南軍の先遣隊三〇〇隻が対馬へ到着したと聞いて、東路軍の一部も壱岐島へ向かい合流した。これを聞いた八十四歳の老齢の少弐資能(入道覚恵)や、孫の資時らも壱岐へ渡り、合戦を指揮し、資能は深手を負って戦没した(相田二郎『蒙古襲来の研究』。資能は七月十二日博多の合戦で重傷ともいう)。

少弐資能の花押

 江南軍は、阿剌罕の病気更迭(てつ)などのために出航が遅れ、壱岐島で、東路軍と合流する予定が狂って、六月下旬、ようやく平戸島に到着し、七月下旬、伊万里湾の鷹島付近で両軍は合流した。江南軍は防備の手薄な肥前の平戸付近への上陸を目指したらしい。
 上陸開始間近の閏七月一日、大風雨に見舞われ、大半の艦船が漂没した。范文虎など元軍の諸将は、被害の少ない船に乗り替え、部下を捨てて逃げかえり、生き残って鷹島へ上陸した者も、博多湾から移動してきた少弐景資を大将とする日本軍の掃討に遭って多くが討たれた。捕虜(ほりょ)となった者は博多へ連行され、蒙古・高麗・漢人は斬首されたが、南宋人は奴隷とされた。