鎮西に所領を有する御家人は、鎮西に下向して異国警固の番役を務めることを、文永八年(一二七一)以来、しばしば幕府が命じている。鎮西の御家人は、従来務めてきた京都大番役や鎌倉番役を務める代わりに異国警固の番役を務めることになった。また、異国警固番役を務めることを最優先して、鎮西の地を離れることを禁止した。
弘安八年(一二八五)、鎮西の御家人などがかかわる訴訟は、守護人が沙汰(さた)するよう命じ、特別の許可がない限り、六波羅探題や関東に参訴することを禁止した。
更に幕府は、異国警固が続く間は、鎮西御家人は所領を女子に譲与することを禁止した。男子が無い場合は、親類から養子を迎えて、異国警固番役を務めよと命じた(弘安九年七月二十五日)。しかし、肥後の御家人相良頼悛は、弘安十年五月二日、上毛郡成恒名地頭職を宇葉伊路(うばいろ)という女性に譲っている。この法令がどの程度守られたか疑問が残る。
また、幕府は異国警固番継続のために、負担の過重を考慮して、地頭請所を認めたり、年貢免除を認める場合や、警固所近くに警固料所を許すような政策をとった(第2図参照)。