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平頼綱が安達泰盛を滅ぼす

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弘安八年(一二八五)十一月、霜月騒動といわれる事件が鎌倉で起こった。北条得宗家の家来平左衛門尉頼綱が、鎌倉殿の家来を代表する秋田城介(安達)陸奥守泰盛とその嫡男宗景らと合戦して、彼らを滅ぼした。
 この事件は、各地に波及して、安達泰盛に心を寄せた武士多数が滅ぼされた。その中には、幕府引付衆であった大曽根宗長・同義泰・武藤景泰・越後国守護足利満氏らがいて、豪族五〇〇人ほどが討たれた。
 この乱後、安達泰盛の縁者であった評定衆の金沢顕時、宇都宮景綱、長井時秀らが幕閣から排除された。
 この事件は執権北条時宗が三十四歳の若さで急死し、嫡子貞時が十四歳の若年で執権となって間もないときに起こった実力者同士の衝突であった。
 このころ、安達泰盛は執権貞時の外戚として自信満々、弘安の改革を断行していた。すなわち、諸国の一の宮・国分寺を興行して、国衙と関係の深いこれら社寺を幕府・守護の支配下に置こうとしたり、鎮西の名主職を名地頭として承認して御家人を増加させ、異国警固番役を務めさせるなど、公家・武家ともに「徳政」として彼の改革に期待した。
 しかし、北条得宗家の代官として、河手・津料をとって、富強となり、借上(かしあげ)(高利貸)を行うようになっていた御内人(みうちびと)(得宗家の家来)にとって、河手・津料を禁止し、鎮西神領興行令や所領無償回復令は好ましいものではなかった。