『歴代鎮西志』は
弘安八年乙酉、太宰豊前守盛氏[少弐舎弟、始名三郎左衛門景資]岩門城に居り、蒙古合戦の功を募り、篡嫡(さんちゃく)の意あり、兵を構え城を修す。都督府司、管内の武士を遣し、岩門を征す。城主死を致す。 (原文は漢文)
と、少弐景資が元寇での功績を嵩(かさ)にきて惣領の座を奪おうとして挙兵し滅んだと説明している。
このころ、全国的に惣領と庶子の対立が目立っているから、景資と惣領経資との対立があったことは十分考えられることである。しかし、安達泰盛の子二郎盛宗との関係で誅(ちゅう)されたという見方が近来提出された。
『武藤系図』の景資伝に「城殿一所ニ岩門城に於て腹切」とあり、『筑紫系図』にも「岩門城に於て、惣領に対し反逆、城氏同じく討死」とあり、城盛宗が岩門城で、少弐景資と一緒に戦死したとなっている。
安達盛宗は父泰盛の肥後守護代として下向し、蒙古合戦では、肥後国の御家人を指揮して活躍したありさまは、竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』で有名である。二度の合戦で盛宗と景資は親しくなっていたらしい。
景資が晩年に盛氏を称したのは安達泰盛の一字を頂戴(ちょうだい)したものと考えられる。権勢家泰盛に接近して、その権威を嵩にきて惣領をないがしろにするような言動が目立っていたのであろう。彼が尊敬する泰盛が失脚して、肥後守護代の座を失った盛宗が景資を頼って、博多郊外の岩門城へ逃げ込んだのをかくまって、兄経資の指揮する近国の兵に攻められ、安達盛宗と運命をともにしたものと考えられる。
経資の花押
少弐景資は豊前守の受領名を称している。景資の父資能も豊前守を称した時期があった。父資能は蒙古合戦のころまで豊前守護であったから、景資は受領として、豊前国衙を掌握し、同時に守護代として豊前国で暮らしたことがあったのではなかろうか。
第2表 蒙古合戦と岩門合戦の勲功地(豊前国関係)
新恩地 | 新地頭 | 旧地頭 | 出典 |
上毛郡原井村・阿久封村 | 薩摩前司入道尊覚(宇都宮通房) | 比志島文書 | |
安吉・吉久・久光三ケ所(宇佐郡カ(毛カ)) | 江見民部六郎景忠 | 兵庫次郎兵衛尉(高並経範カ) | 〃 |
佐野次郎丸(宇佐郡) | 曽根崎淡路法橋慶増 | 兵庫馬二郎兵衛入道(高並経範) | 〃 |
東浜田地(下毛郡得永名) | 宇良金崎次郎入道々眼 | 同上 | 〃 |
時紀名 | 田中七郎入道善光 | 同上 | 〃 |
阿弥陀寺大通新開 | 相神浦次郎入道妙蓮 | 同上 | 〃 |
神実扶院仏性田 | 同上 | 同上 | 〃 |
豊前国佐野次郎丸 | 白石六郎左衛門尉通武 | 兵庫三郎入道(高並能範カ) | 〃 |
下毛郡全得名 | 丹浪房良晴 | 兵庫馬三郎能範 | 宮成文書 |
佐田庄(宇佐郡) | 前薩摩守法師尊覚 | 足立五郎左衛門尉遠氏 | 佐田文書 |
青木別書符田戸数(下毛郡青・曽木別符カ) | 倉上弥藤次兵衛入道 | 筧干入道正行(野中二郎入道正行カ) | 比志島文書 |
仲津郡下長江村5町余 | 大河左近入道子息行長 | 大川文書 | |
田河郡金田村 | 隠岐三郎左衛門入道行存(二階堂) | 太宰府関係史料10 | |
筑前国小山田村 | 薩摩前司入道尊覚 | 金田六郎左衛門尉時通 | 比志島文書 |
筑前国那珂東郷岩門十分一 | 相神兵衛六郎家弘 | 同上 | 〃 |
同上 | (以下9人) | 同上 | 〃 |
薩摩国鹿児島郡司職十分一 | 野中左衛門三郎宗通法師 | 〃 | |
肥前国神崎庄一分 | 山田中内右衛門尉政盛 | 太宰府関係史料10 | |
同上 | 小犬丸弥次郎入道祐西 | 〃 | |
同上 2町9反等 | 大和三郎兵衛太郎入道浄覚 | 〃 | |
肥前国松浦庄内甘木村 | 白石美野又次郎通継 | 兵庫馬三郎能範 | 比志島文書 |
同上 石垣村 | 土々呂木又六家直 | 同上 | 〃 |
同上 加々良島 | 松浦次郎延 | 兵庫馬二郎 | 〃 |
壱岐国瀬戸浦預所職 | 薩摩太郎左衛門尉盛房 | 〃 |