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合戦の余波と豊前国武士

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 第2表に見えるように、豊前国関係の武士が、景資に従って、その所領を没収されている。兵庫馬二郎・馬三郎の兄弟や金田六郎左衛門尉などがそれで、筧干入道正行もそれかもしれない。筧干は埜中の誤読ではあるまいか。霜月騒動の前、野仲二郎入道正行と兵庫馬二郎経範は、野仲郷内冠師野(かぶしの)村、河(阿カ)江原寺居垣、中津河岩木一町などをめぐって裁判し、和与している文書(『櫛野文書』)が最近発見された。それによると、兵庫馬二郎は資時となっている。経範は景資の被官となって、景資の一字をいただき改名したのではなかろうか。
 兵庫氏は『到津文書』によると、宇佐郡司藤原氏の庶子で、宇佐郡院内の高並に居住して高並氏を称し、少弐氏二代目資能の被官となって、豊前か肥前の守護代を務めていたことが、次の史料で判明する。
  守護代兵庫大夫資範非法の間の事、鎮西の守護成敗の事においては、右大将家の御時より、別儀をもって定め置かるの間、代々の御下文を帯し、沙汰を致す所なり。余国の守護沙汰に准じ申さるべからざる事なり、但し、細々非法の由の事、尋ね下され、左右を申さるべきの由、群議に及ぶと云々(『吾妻鏡』寛元二年=一二四四=八月二十四日)
 この意味は、鎮西の守護は源頼朝時代から、他地域の守護よりも幅広い権限が与えられているが、守護代が度々非法をなすという訴えがあるので調査して報告させることにしたというものである。
 高並氏の系図を他の史料などから作成すると、下のようになる。

[系図]

 次に、岩門合戦で少弐経資と共に攻撃側に加わって勲功の賞に与(あずか)った武士に、薩摩太郎左衛門尉盛房がいる。『宇都宮紀井系図』では、薩摩守通房の子に、太郎左衛門盛房、二郎左衛門経房がおり、経房は出家して教蓮と号し、弘安五年(一二八二)四月、肥前国長嶋庄上村の地頭浦公村と同庄楢崎村を争っている。この村も蒙古勲功の地であろうか。
 また、正応三年(一二九〇)の『宇都宮文書』に次の史料がある。
  早く前薩摩守法師[法名尊覚]をして、豊前国佐田庄地頭職[足立五郎左衛門尉遠氏知行分]を領知せしむべき事
  右、同国安雲村の替りとして宛行わる所なりてへれば、早く先例を守り領掌せしむべきの状、仰せにより、下知件の如し
    正応三年十月四日                      陸奥守平朝臣(連署宣時)(花押)
                                  相模守平朝臣(執権貞時)(花押)
                                          (原文は漢文)
 宇佐郡佐田庄(安心院町)へは、応永六年(一三九九)、宇都宮一族の者が城井菅迫から移り住んで佐田氏を称し、大内氏の被官となって、宇佐郡代を務めることになる。前地頭足立五郎左衛門尉遠氏は、安達泰盛方に加担して没落した武蔵国の武士と思われる。宇都宮通房が勲功賞として得ていた上毛郡阿久封村は安雲村のことであろう(第2表参照)。