安達泰盛が失脚間際に、三人の「徳政」奉行を派遣して、九州を三分し、大友・少弐・安達盛宗の三守護人を合奉行として、宗たる神社の所領の回復・社壇の修理・神事の復活と名主職の安堵に当たらせたことは先述したが、内管領(うちかんれい)平頼綱が勝利を収めて間もない弘安九年(一二八六)に、次のような法令が出された。
鎮西の輩、訴訟の事、守護人、尋ね沙汰せしむべきの由、先日仰せられ畢(おわん)ぬ。然りといえども、なお、地頭御家人・寺社別当神主供僧神官・所々名主・荘官以下、参訴を企つ。自今以後においては、別の仰せにあらざるの外は、関東・六波羅に参るべからず。住国せしめ、異国警固を致すべし、訴訟あらば、少弐入道・兵庫入道・薩摩入道・渋谷権守入道寄合て尋沙汰せしむべし。もし、国において、裁許し難くば、注進せしむべし、越訴たりといえども、尋ね究め注申すべし。関東居住の輩、鎮西の族を訴え申さば、下向せしめ、沙汰を経るべし。関東において、その沙汰有るべからず。
(原文は漢文『比志島文書』)
この法令の意味は「四人の鎮西奉行人を定めるから、今後、訴訟は鎮西で取り扱い、鎌倉や京都へ出かけて訴訟してはならない。しかし、四奉行人が裁許しがたいことは上申し、越訴の場合は、四奉行人が調べて上申せよ。関東の人が九州の人を訴えた場合は、九州で裁判するから、九州へ下向せよ」というものである。『大友文書』では、四奉行人のだれかかが訴えられた場合は残りの人々が調査せよとある。