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鎮西探題の成立経過と権限

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蒙古使が来朝する直前の文永二年(一二六五)ごろ、国司の力が衰え、従来、国司が行ってきた宇佐宮の造営や神宝調進が、武士の抵抗によってできなくなったため、鎌倉幕府が代わって、これらを執り行うことになった。
 幕府は九州の代表的な御家人である少弐氏と大友氏に、守護管国を超えた六か国二島に及ぶ権限を与え、異国警固についても、大友氏が少弐氏とともに、少弐氏管国である筑前・肥前の要害警固に当たり、大隅・薩摩にも、その権限が及ぶようになっている。両氏は、警固場所の位置から、東方奉行・西方奉行といわれたようであるが、訴訟の調書を作成し、注進しても、裁決する権限はなかった。それが、霜月騒動のあと、平頼綱によって、異国警固番役を最優先するため、四人の奉行人に訴訟裁決権を付与する鎮西談議所を設置したことは先述したが、正応四年(一二九一)、この四奉行人の裁判に依怙贔屓(えこひいき)があるという訴えがあり、幕府は尾藤内左衛門入道と小野沢亮次郎入道を派遣して、その事実を調査報告させた。このことがあった二年後、大友・少弐両人に代わって、鎮西奉行の仕事を務めてきた北条為時(時定)が没したのを機に、六波羅探題であった若い北条兼時(のち関東評定衆)と名越時家(のち関東引付衆・同評定衆)を博多へ下向させ、六波羅探題の裁判権を分譲して、九州の訴訟処理を行わせ、異国防禦の指揮を命じた。これを鎮西探題という。
 この年、鎌倉では、内管領平頼綱一族が、執権貞時によって討滅させられる事件(平禅門の変)があり、兼時・時家も、間もなく鎌倉へ帰り、代わって、金沢実政―政顕―種時―随時(ゆきとき)―英時(ひでとき)と博多にあって専権をふるった。その間、永仁七年(一二九九)ごろには、鎮西評定衆と、三番からなる引付衆も置かれて、小幕府としての体裁を整えていった。