ビューア該当ページ

異国撃退の恩賞

615 ~ 617 / 1391ページ
この時期、幕府は異国撃退に協力した弱小の御家人や大寺社へ、一種の恩賞として、徳政令と神領興行令を出した。
 神領興行のことは、安達泰盛の時代から何度も触れ出されたが、実行に移された様子はない。永仁六年(一二九八)には、朝廷から綸旨(りんじ)をもって神領興行がなされることになったが、やはり、これを実行する力がなく、正和元年(一三一二)十月ごろ、鎌倉から明石盛行・斎藤重行・安富長嗣の三人を奉行として派遣し、強力に執行に当たった。
年・月・日武士名対象地との関係出典
正安1(1299)・8・12大和太郎左衛門入道観仏・山田太郎右衛門入道道円下毛郡柑子木田畠苅田狼藉につき使節 庄入道善阿の相親上津野弥三郎康清到津文書
1・8・12薩摩次郎左衛門尉経房下毛郡野仲郷全得・世永両名を濫妨するも、敬神のため宇佐宮に返還す   〃
2(1300)・3・13別府太郎入道・陶山三郎(上毛郡カ)守久・武安名を宇佐宮へ打渡す永弘文書
正和1(1312)・3・13高並小次郎入道妙願下毛郡野仲郷千萬名四反を宇佐宮へ返付させらる薬丸文書
1・12・27前大和守頼房  〃 木原村稲重名三町余を宇佐宮へ返付させらる 展転知行の地到津文書
2(1313)・2・20山田中内左衛門尉政盛上毛郡黒土庄田地三反を宇佐宮に返付させらる宮成文書
2・3・12山田彦三郎政康下毛郡四郎丸名田地一町二反宇佐宮へ返付させらる益永文書
2・5・1名田七郎入道上毛郡多布郷慶丸名畠地、上津多布村古動名畠地等につき、参決せらる薬丸文書
2・6・2深見右近五郎広政宇佐郡向野郷田四反につき、使節北文書
2・6・12野仲次郎太郎道雄・妙法寺弥三郎入道円証下毛郡麻生郷藍原屋敷二所を押領す永弘文書
2・6・16深水武藤三郎能氏下毛郡野仲郷弁分三町二反稲用文書
2・6・22野仲道性房円空  〃   〃 全得、世永両名を濫妨す 阿波四郎入道素仏使節永弘文書
2・6・22宇都宮頼房下人又三郎・九郎三郎男上毛郡是吉名内田一反三〇代、屋敷二所宇佐宮に返付させらる奥文書
2・6・□大和八郎信茂  〃  三毛門大路田六反宇佐宮に返付させらる宮成文書
2・8・12山田八郎範房子息千世房丸下毛郡久松名を宇佐宮へ返付させらる小山田文書
2・8・16高並常陸房行願豊前国橋本村につき、壱岐四郎太郎入道明覚 使節をつとむ   〃
2・8・22八□孫三郎入道円智(下毛郡)延入村原畠につき、久保六郎種栄、使節をつとむ時枝文書
2・8・27野仲原次郎道典宇佐郡高家郷大根河免田七反三〇代を宇佐宮に返付せしむ屋形米二郎文書
2・9・6久保六郎種栄下毛郡野仲郷得光名内五反につき、使節をつとむ小山田文書
2・9・6市尾平内兵衛尉光直曽孫光俊  〃   〃 実得・時元・快日三ケ名半分田畠屋敷を押領野仲文書
2・10・2小田原大蔵左衛門入道崇忍宇佐郡封戸郷蛤原田地二反三〇代を宇佐宮へ返付させる北文書
文保1(1317)・2・14山田中内左衛門尉下毛郡野仲郷内五反につき、使節小山田文書
1・8・25久保三郎種家→六郎種俊→六郎種栄  〃 穴石郷黒水・吉武両名の返付を訴えられるも、これを棄却せしむ 黒水文書
元応1(1319)・8・19野仲次郎太郎  〃 大家・野仲両郷内自見名并今永田地を宇佐宮へ返付せしむ、深見弥次郎・津布佐弥五郎 使節北文書

 前ページの表は、豊前国に関係した興行史料である。
 これらの法令は、富裕な御家人や凡下(ぼんげ)の人々へ甚大な犠牲を強いただけに、社会の矛盾を深め、鎌倉幕府に対する信用を大きく失墜(つい)させることになり、悪党といわれる反幕府的、反荘園領主的な行動をなす人々を増大させた。