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倒幕計画と幕府の対応

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正中の倒幕計画の挫折(ざせつ)にも懲りず、後醍醐天皇は、尊雲法親王(大塔宮護良(おおとうのみやもりよし)親王)、尊澄法親王(宗良親王)を延暦寺へ入れ、興福寺・東大寺などへ行幸して寺院の武力を取り込もうとして、着々と計画を進めていた。
 天皇の側近で、後の三房といわれた一人、吉田定房は、天皇の計画を無謀として反対していたが、入れられず、ついにこれを幕府に告げた。元弘元年(一三三一)五月幕府は、天皇の片腕として行動していた日野俊基・僧円観・文観らを捕らえて、断罪もしくは配流に処した。
 天皇は、幕府の追及の手が伸びてくると考えて、いったん東大寺へ逃れ、のち笠置山に入った。
  禁裏、山門へ行幸の事、去月二十六日、六波羅御教書并び今日鎮西御施行、かくの如し、早く仰せ下さるる旨に任せ、用意を致し、馳せ参ぜらるべし、よって執達件の如し
    元弘元年九月五日
沙弥(大友貞宗)(花押)  
   豊前蔵人三郎(田原直貞)入道殿
 これは、豊後守護大友貞宗が同国国東郡田原別符に住む庶家田原氏へ軍勢催促をかけたもので、上洛することになるが、このとき、延暦寺へ向かったのは天皇の身代わり花山院師賢(もろかた)であったことが、あとで判明することになる。