笠置山は一か月ほどで、幕府の大軍による攻撃のために陥落するが、この間に、金剛山の西麓河内国赤坂で護良親王(大塔宮)をいただいて楠木正成が挙兵し、近畿一帯で不穏な情勢が広がった。
囚(とら)われの身となって京都へ帰還した天皇は、皇太子量仁(かずひと)(光厳(こうごん)天皇)に譲位させられ、翌年三月、承久の乱の後鳥羽上皇の例に倣って隠岐島へ移された。
笠置が落城して一か月ほど後に赤坂城も陥落して吉野の山中に姿を隠していた楠木正成は、元弘二年十二月油断を衝(つ)いて、河内赤坂・千早城へ戻り、再び立てこもった。護良親王は吉野に挙兵してともに幕府軍に抵抗を続けた。この間に播磨の赤松円心をはじめとして、各地に反幕府の旗幟(きし)を掲げるものが現れ、畿内近国は騒然となった。幕府の千早城包囲軍の中にも、幕府を見限って帰国するものが続出し、幕府の屋台骨も揺らいできた。