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尊良親王ら肥前で蜂起

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十七日には、肥前彼杵(そのき)(長崎県)から早馬が到来した。江串三郎入道という者が、先帝の第一の皇子尊良(たかよし・たかなが)親王を土佐の配流先からひそかに迎えて、大村湾一帯の武士に呼びかけて著到をつけ始め、十四日に蜂起(ほうき)したという。前年の暮れから、千綿の奥の木庭という所にかくまっていたという。この日のうちに、肥前の御家人佐志二郎・値賀二郎・波多源太・多久太郎・高木伯耆太郎らを討手として差し向けた。
 三月二十二日、関東へ送った早馬雑色(ぞうしき)五郎三郎が下着して言うには、金剛山の攻防は依然として続いており、赤松入道円心は京都突入の形勢にあった。二十三日、院宣を所持する八幡弥四郎宗安という者が斬首され晒された。これは去る二十日、大友氏へ院宣を渡そうとして捕らえられたもので、大友・少弐・菊池・平戸・日田・三窪氏あての六通を所持していた。二十四日には、高津入道道性というものが、一〇か国の兵を率いて、北国から、長門と石見の境三隅へ攻め寄せているという噂(うわさ)が流れた。
 三月二十七日、規矩高政からの早馬による報告では、去る二十五日、阿蘇大宮司館に押し寄せたところ、大宮司惟直は、領内の住家を焼き払い、鞍岡山に引きこもった。難所で攻められないため、日向道側から攻めることにし、日向の柴原・桑内の両人に命じて案内者を出させた。
 二十九日、阿蘇大宮司と菊池二郎武重は、戦いに敗れ、鞍岡山を落ちて行方をくらませた。