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長門方面の攻防

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この日、長門方面では、吉見氏が探題方として三〇〇〇騎を率いて、石見から押し寄せたので、豊田・厚東氏らは軍勢を大峰へ差し向け合戦となった。桜田三河守師頼と乙隈某は門司関へ向かうべく、箱崎から出立した。
 四月一日、門司関の桜田師頼からの報告によると、厚東・大峰地頭由利・伊佐などの人々が、高津入道道性に与力して、長門探題館へ押し寄せた。
 しかし、射返されて、厚東の子息、高津道性の子息などが負傷して、退いた。翌日、桜田師頼は大隅国御家人を率いて渡海し、日田肥前権守・宗像大宮司・豊前の築城・上毛・下毛・宇佐四郡の人々が長門へ渡った。
 このころ、京都近辺では、金剛山の落城が近く、赤松入道円心は京都七条まで侵入したが撃退され、多数の犠牲者を出して逐電し、もとの布引城にこもり、やがて石清水に進出したという報告が博多へもたらされた。
 長門では豊前などから渡海した人々と戦った高津入道道性勢が一〇〇余人の戦死者を出して退散した。同日規矩高政が、肥後鞍岡山の戦いで討ち取った首三二、生け捕り二人を持って博多へ帰ってきた。
 京都では、四月八日、石清水八幡を陣とする赤松円心と呼応して、伯耆船上山から上洛してきた千種忠顕(ちぐさただあき)が京都に侵入し、激しい戦闘が行われ、多くの寺社や住家を焼亡させたが、またも退いた。