この知らせを受けた鎌倉では、名越高家と足利高氏に大軍をつけて上洛させた。高氏は、途中三河の矢作(やはぎ)から細川和氏・上杉重能をひそかに伯耆船上山へ向かわせ、後醍醐先帝へ味方することを伝えさせた。二人は先帝の命令書を受け取って、近江鏡宿で高氏と出会い、これを伝えたという。
四月十六日、足利高氏は入京し、二十七日には伯耆へ向かって離京した。この日、名越高家は赤松勢と戦って戦死したが、足利高氏は丹波篠村(しのむら)まで進み、二十九日、篠村八幡に願文を捧げ、先帝方として行動することを誓い、同時に、九州の大友・阿蘇・島津氏ら、諸方の武士へ味方に加わるよう呼びかける小片の密書を発した。
伯耆国より、勅令を蒙り候の間、参じ候、合力候はば本意に候、恐々謹言
(元弘三年) 四月廿九日 (足利)高氏(花押)
阿蘇前太宮司殿(惟時)
このような文書が、少弐氏や宇都宮氏へも届けられたと考えられる。
五月七日、足利高氏は赤松入道円心・千種忠顕らと示し合わせて、六波羅攻撃を開始し、終日戦って、六波羅籠城軍を追い詰め(南方の探題北条時益戦死)、翌八日、北方の探題北条仲時が京を出て鎌倉へ向かったため、京都は足利高氏らによって占領された。北条仲時も追撃を受けて九日番場峠(滋賀県)で力尽き自殺し、六波羅探題は滅亡した。
六波羅が陥落して、光厳天皇、後伏見・花園両上皇をともなって仲時以下の敗軍が東を目指して近江路を落ちている八日、関東では、新田義貞が上野(こうずけ)国で挙兵し、五月十五日、北条泰家軍と武蔵府中で戦って、これを破り、鎌倉へ迫った。五月二十一日、義貞は稲村ケ崎から干潮を利用して鎌倉に突入し、二十二日北条高時以下数百人を自殺に至らしめた。