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鎮西探題館への攻撃

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六波羅探題が滅び、鎌倉も陥落した三日後、菊池武時が無念の敗死をした七十余日後の五月二十五日、少弐貞経・大友貞宗は、島津・紀井・伊東・高木・竜造寺・大村氏らに呼びかけ、にわかに鎮西探題館を攻めて、北条英時以下三四〇人ばかりを自刃させた。松浦党・草野・山鹿・宗像などの諸氏は探題方に属して戦ったという。
 翌五月二十六日には、江串三郎に擁せられて、肥前彼杵(そのき)に決起して、太宰府原山に陣を進めた尊良親王が著到を受け付け、九州の統治に当たった。
  □(五)月廿五日、武蔵   (修理)亮英時以下□(誅)伐の時、舎弟□(重)貞、疵を被る間の事、見候いおわんぬ。仍って執達   (件のごとし)
       (元弘)三年五月廿八日               (宇都宮)高房(花押)
        田口孫三郎(信連)殿

高房の花押

 これは、下毛郡(三光村)の御家人田口氏が、宇都宮高房(のち冬綱、守綱と改名)に、鎮西探題攻め参加の証判を得たものである。田口信連は七月八日、これを持参して、大友貞宗に証判を請い、更に七月十日、少弐貞経にも証判を請うている。不安定な世情の中で、田口氏の心中を思いやることができる史料である。