翌五月二十六日には、江串三郎に擁せられて、肥前彼杵(そのき)に決起して、太宰府原山に陣を進めた尊良親王が著到を受け付け、九州の統治に当たった。
□(五)月廿五日、武蔵 (修理)亮英時以下□(誅)伐の時、舎弟□(重)貞、疵を被る間の事、見候いおわんぬ。仍って執達 (件のごとし)
(元弘)三年五月廿八日 (宇都宮)高房(花押)
田口孫三郎(信連)殿
高房の花押
これは、下毛郡(三光村)の御家人田口氏が、宇都宮高房(のち冬綱、守綱と改名)に、鎮西探題攻め参加の証判を得たものである。田口信連は七月八日、これを持参して、大友貞宗に証判を請い、更に七月十日、少弐貞経にも証判を請うている。不安定な世情の中で、田口氏の心中を思いやることができる史料である。