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大和弥六左衛門尉高房の動き

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宇都宮高房は、元徳元年(一三二九)十二月には、宇都宮頼房の跡を継いでいたらしく、当時は大和弥(いや)六左衛門尉と称し、大友貞宗とともに、弥勒寺造営料について奉行を命ぜられている(『小山田文書』、『益永文書』)。『佐田系図』には、高房は、実は関東宇都宮貞綱の子で、『太平記』に活躍する公綱の弟であり、幼少にして城井頼房に育てられ、頼房の多数の実子をさしおいて家督の座に就いたという。次の家綱も公綱の次子と記している。まことに不思議な説である。惣領家の統制力がそんなに強かったのであろうか。
 高房の実兄という公綱は、足利尊氏と同じ行動をとっているが、城井高房も、これと連絡があったのか、祖父通房以来、深い繋がりを保っていた北条氏を見限り、田口氏ら豊前の武士を率いて鎮西探題を攻撃することになったのである。