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恩賞と国司・守護の任用

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鎌倉陥落後、鎮西探題の滅亡を知った足利高氏は、大友貞宗の注進状を天皇へ奏聞した旨を、元弘三年(一三三三)六月十日付で知らせ、同十三日には、召人(めしうど)・降人(こうにん)などのことを計らい沙汰するよう、大友貞宗に命じた。
 後醍醐天皇は、鎌倉が陥落したことを知らないまま、五月二十三日、伯耆船上山をあとにし、六月四日、京都東寺に到着した。
 天皇は、六月七日、まず持明院統の御領を安堵し、大社寺の所領を安堵し、八月に入って、恩賞のことに着手した。十月ごろ、雑訴決断所が設置され、訴訟の処理に当たった。建武元年(一三三四)八月には、組織が整備されて、八番に分けられ、一〇七人もの職員が配置された。
 その一番(五畿内担当)一四人の中に、宇都宮兵部少輔公綱がいた。
 公綱は足利尊氏(高氏改名)と行動をともにしていたが、後醍醐天皇の信任を得て、側近の一人となり、足利尊氏と対立するようになる。
 建武政権の特色の一つに、国司と守護を混じて任用していることがあげられる。新田義貞を越後・上野・播磨三か国の国司とし、楠木正成を摂津・河内二か国の国司に補任(ぶにん)し、少弐貞経を筑前・筑後二か国の守護に、同頼尚を豊前の守護とした。平清盛や源頼朝が数か国の知行国主となった例や、少弐資能が三前二島の守護となったような例はあったが、一人が数か国の受領を兼任するような例はなかったのである。もっとも守護の多くが、在国司職などを所持するようになり、また国衙の職務を守護クラスの武士が執行するようになっていたから、さして抵抗を感じなくなっていたのであろうか。