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糸田貞義・規矩高政の乱

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上総掃部助高雅、同左近大夫貞義已下の輩与党の事、当国の地頭等を相催し、対(退)治すべしと云々、早く仰せ下されの旨に任せ、来たる廿九日出京の間、用意を致し、同じく下国せしめ、合戦の忠を致さるべく候、よって、執達件の如し
      八月(「建武元」)十二日
妙恵(少弐貞経)(花押)
      田口孫三郎(信連)殿
 これは、上洛していた少弐貞経が、同じく在京していた田口信連(のぶつら)に、下国して規矩高政・糸田貞義の乱を鎮定せよと催促した史料である。
 筑前『中村文書』・肥前『深堀文書』などには、七月九日、誅伐(ちゅうばつ)のために著到したとあるから、『田口文書』の史料よりも一か月以上も前に九州で大規模な合戦があったことになる。
 『深堀系図証文記録』によると、前鎮西探題北条英時の猶子規矩高政は、筑前の山鹿・芦屋辺に隠れていたが、建武元年正月、筑前帆柱城(八幡西区)に挙兵し、弟の糸田貞義は筑後堀口城(三池郡)に挙兵した。後醍醐天皇の命令で、少弐頼尚らが高政以下を誅伐し、大友氏時(貞載(さだとし)の誤り)らは、貞義を誅伐したと述べている。
 この事件を唯一詳しく記述しているのは『歴代鎮西要略』である。
 それによると、建武元年(一三三四)正月、宗像大宮司氏長が天皇の命令を受けて、帆柱城の逆徒を討たんとしたところ、豊前門司城に拠(よ)っていた長野政通・貞通兄弟が豊前の兵をもって、裏宗像氏を後詰めしたために、宗像大宮司氏長は敗れて、蔦岳城へ逃れ立てこもった。三月上旬、少弐・松浦・原田・秋月・宗像氏が帆柱城を攻め、大友・菊池氏らは筑後堀口城を攻めることになった。
 新少弐頼尚は筑前・肥前の兵二万をもって豊前へ向かい、大友貞載は豊後・筑後の兵一万余をもって筑後国へ向かった。少弐勢は帆柱城の砦(とりで)数か所を破り、山鹿へ向かい、山鹿筑前守政貞を逃亡させた。続いて、帆柱城を攻撃して、規矩高政を規矩城へ退却させた。長野政通が降伏して、高政も規矩城で滅んだ。頼尚は捕虜を引き立てて上洛した。

規矩高政の花押

 四月、大友貞載が筑後堀口城を囲むと、星野・黒木・草野・問注所の諸氏が、大友方に降り、四月十二日糸田貞義以下は堀口城で滅んだ。
 菊池武重は、このころ、糸田城を陥落させたという。
 この記述と、史料との間に、月日の差があり、内容もそのまま信用できるものではないが、企救郡や山鹿が舞台となったことは考えさせられるものがある。
 土佐の『蠹簡(とかん)集残篇』に、企救郡吉田村(小倉南区)の地頭武藤吉田孫次郎入道宗智の言上が出ている。それによると、兄の武藤新左衛門入道崇観が規矩高政に加担して、惣領職を闕所(けっしょ)されたという。
 企救一郡の国衙領や山鹿庄が北条得宗領であったことから考えて、その地頭代官を務めた長野氏や山鹿氏が、規矩高政をかくまい、下地の引き渡しを拒んで挙兵したものと考えられる。
 なお、このころ闕所されている下毛郡大家(おおえ)郷司藤原久明(萱津(かやつ)又三郎『阿蘇文書』)、京都郡草美彦三郎入道、企救郡曽根弥四郎入道、田川郡白桑紀平四郎入道らも、規矩高政や糸田貞義に加担したのではあるまいか。
 北条氏残党の挙兵は長門国でも起こり、豊前・肥前の武士が渡海して、建武二年正月、越後左近将監入道(金沢貞将の子カ)、上野(こうずけ)四郎入道(長門探題北条時直の子カ)らを長門の国府佐加利(下山(さかりやま)・盛山)城に攻めて生け捕りにした(『田口文書』・『武藤吉田文書』)。