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京都突入と九州への敗走

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建武二年(一三三五)七月の中先代の乱をきっかけとして、翌月鎌倉に下向した足利尊氏は八月十五日、新田義貞の罪悪を数え上げて叛意を明らかにした。
 尊氏の弟直義(ただよし)は、十一月二日、新田義貞誅伐のために、味方に加わるよう諸方の武士へ呼びかけた。
 尊氏を討つため、鎌倉へ向かった新田義貞を大将とする官軍は、箱根と竹の下での合戦で、大友左近将監貞載(さだとし)らの寝返りによって大敗し、都へ逃げ帰った。尊氏はこれを追って、建武三年(一三三六)正月十日、山崎の合戦で大友千代松丸(氏泰)・宇都宮治部大輔公綱らを降し、京都に突入した。しかし、奥州から上洛してきた北畠顕家軍に敗れて、二月十二日、兵庫津から、大友千代松丸の船に乗って九州へ敗走した。
 これより前の二月三日、宇都宮公綱は再び官軍に降り、尊氏再上洛後は出家したが、のち吉野へ走り、還俗(げんぞく)して四位の左少将となった