ビューア該当ページ

多々良浜の戦いの勝利と上洛

632 ~ 634 / 1391ページ
尊氏が九州へ向かったという知らせを受けた菊池武重の弟武敏は大軍を率いて博多へ向かった。尊氏方としての態度を明らかにしていた少弐入道妙恵は、これを高良山(こうらさん)(久留米市)に阻止しようとしたが、水木の渡り(太宰府市)で敗軍し、太宰府有智山(うちやま)城へ撤退したが、味方の裏切りに遭って陥落し、一族二百数十人とともに自害した。六十五歳であった。

少弐武藤系図

 そのころ、新少弐頼尚は三〇〇騎ほどを率いて尊氏を迎え、門司・芦屋・宗像とお供している。尊氏は三月二日多々良浜に、菊池・阿蘇氏らの官軍と対陣し、少数の軍勢をもって、官軍を破り、太宰府へ入った。菊池武敏は肥後へ退き、深手を負った阿蘇大宮司惟直は、肥前小杵山(おつきやま)で自害し、秋月備前守も、太宰府付近で、一族二〇余人とともに討たれた。
 太宰府の足利尊氏は、三月八日ごろ、筑後黒木城に籠城(ろうじょう)した菊池武敏討伐に、一族の一色頼兼(上野左馬助)を派遣し、これを攻略させた。
 菊池武敏は豊後玖珠城(切株山)へ逃れ、大友千代松丸の長兄二郎貞順(さだより)と十月十二日まで抵抗を続けた。尊氏は一色右馬助頼行を玖珠城へ派遣し、豊前・豊後・肥前などの武士に攻略を命じた。
 下毛郡の野仲郷司の庶子野依(のより)道棟は、惣領とともに攻囲軍に加わり、合戦の確認者を多数あげているが、その中に田中三郎五郎入道がいる。九月十二日夜、城中へ攻撃をかけたとき、安心院五郎とともに現場にいた。当町田中と関係のある武士であろうか。
 この間、態勢を整えた尊氏は、再上洛を決し、三月末日、上洛の途に就くことになった。
  新田右衛門佐義貞の与党誅伐の事、院宣を下さるる所なり、よって今月二十八日、上洛すべきなり、発向の時、軍忠を抽ずべきの状、件の如し。
    建武三年三月二十六日
尊氏(花押)    
     宇都宮因幡権守(公景)殿
(原文は漢文)
 この史料によると、朝敵の汚名を逸(そ)らすため、持明院統の光厳上皇を抱き込み、その院宣を盾として、宇都宮公景(佐田氏の祖)ら、九州・中国・四国の武士に上洛を命じている。
 尊氏は、博多に一色宮内少輔範氏(のりうじ)(入道道猷)を残して鎮西を管領させ、四月三日、東上した。このとき『太平記』は、少弐・大友両氏もとどめおいたとあるが、『梅松論』は、大友・少弐・宇都宮氏は将軍に従い備後鞆の津から、少弐頼尚は陸路を足利直義に従って上洛したとある。『梅松論』の方が真実らしい。田口孫次郎重連は八月二十三日から二十五日まで、守護少弐頼尚のお供をして軍忠を励んだとして証判を得ており、ずっと在京していたと思われる(『田口文書』)。

一色道猷の花押