少弐武藤系図
そのころ、新少弐頼尚は三〇〇騎ほどを率いて尊氏を迎え、門司・芦屋・宗像とお供している。尊氏は三月二日多々良浜に、菊池・阿蘇氏らの官軍と対陣し、少数の軍勢をもって、官軍を破り、太宰府へ入った。菊池武敏は肥後へ退き、深手を負った阿蘇大宮司惟直は、肥前小杵山(おつきやま)で自害し、秋月備前守も、太宰府付近で、一族二〇余人とともに討たれた。
太宰府の足利尊氏は、三月八日ごろ、筑後黒木城に籠城(ろうじょう)した菊池武敏討伐に、一族の一色頼兼(上野左馬助)を派遣し、これを攻略させた。
菊池武敏は豊後玖珠城(切株山)へ逃れ、大友千代松丸の長兄二郎貞順(さだより)と十月十二日まで抵抗を続けた。尊氏は一色右馬助頼行を玖珠城へ派遣し、豊前・豊後・肥前などの武士に攻略を命じた。
下毛郡の野仲郷司の庶子野依(のより)道棟は、惣領とともに攻囲軍に加わり、合戦の確認者を多数あげているが、その中に田中三郎五郎入道がいる。九月十二日夜、城中へ攻撃をかけたとき、安心院五郎とともに現場にいた。当町田中と関係のある武士であろうか。
この間、態勢を整えた尊氏は、再上洛を決し、三月末日、上洛の途に就くことになった。
新田右衛門佐義貞の与党誅伐の事、院宣を下さるる所なり、よって今月二十八日、上洛すべきなり、発向の時、軍忠を抽ずべきの状、件の如し。
建武三年三月二十六日
尊氏(花押)
宇都宮因幡権守(公景)殿(原文は漢文)
この史料によると、朝敵の汚名を逸(そ)らすため、持明院統の光厳上皇を抱き込み、その院宣を盾として、宇都宮公景(佐田氏の祖)ら、九州・中国・四国の武士に上洛を命じている。
尊氏は、博多に一色宮内少輔範氏(のりうじ)(入道道猷)を残して鎮西を管領させ、四月三日、東上した。このとき『太平記』は、少弐・大友両氏もとどめおいたとあるが、『梅松論』は、大友・少弐・宇都宮氏は将軍に従い備後鞆の津から、少弐頼尚は陸路を足利直義に従って上洛したとある。『梅松論』の方が真実らしい。田口孫次郎重連は八月二十三日から二十五日まで、守護少弐頼尚のお供をして軍忠を励んだとして証判を得ており、ずっと在京していたと思われる(『田口文書』)。
一色道猷の花押