建武五年(一三三八)、少弐頼尚は、豊前国と亡父貞経の領国筑前・肥後の守護職を与えられて帰国した。しかし、博多には鎮西管領一色道猷がいて九州全域の武士を掌握しようと努力しており、とかく両者の職掌を侵すことが多く、次第に対立するようになった。
暦応三年(一三四〇)二月、一色道猷は帰洛の許可を九か度も求めたが許されず、それならば、管領料所を下さり、管領分国を定めて、軍勢催促させてほしいと長文の嘆願書を送った。その中で、鎮西料所は、天雨田庄八〇町のほかは、ことごとく相違して僅少であるため、従人も二〇余人に減ってしまった。また、少弐頼尚が帰国して、豊前・筑前・肥後は頼尚が軍勢催促することになり、暦応二年十二月、大友氏泰が帰国して、豊後と肥前の軍勢催促をすることになったので、残るは筑後国のみ軍勢催促できることになった。しかし、筑後国は大半が南朝方であるから、他国へ動員をかけることなど思いもよらないことである。大隅・薩摩は遠いうえ、畠山氏や島津氏が奉行していて催促しがたい状況にある。だから、早急に管領分国を設定していただきたいと述べている。
少弐・大友氏の帰国で、鎮西管領の権限が、次々と制限され、弱まっていたのである。
この時期(建武三年四月二十九日)、得永地頭職が、長門国串崎大宮司へ寄進され、将軍→頼尚→弓削田六郎入道・白土新三郎の手順で打ち渡されている。得永は下毛郡や京都郡にもあるので、当町の徳永と特定することはできないが、今後の課題としておきたい。
また、『西郷文書』に次の史料が見える。
(花押)
豊前国分寺領内塔田村政所職の事
右、彼職においては領知せしめ、恒例の御年貢・御公事等、懈怠(けだい)なくその沙汰を致すべき者也、仍って、状件の如し
暦応三年十月廿五日
弓削田孫増御前所
少弐頼尚の花押
この意味は、国分寺領である上毛郡塔田村(豊前市)の政所職を田川郡の弓削田氏へ預けるから、年貢・公事の寺納を怠らないようにせよというものである。数少ない豊前国分寺関係の史料である。