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足利直冬九州へ入る

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足利兵衛佐直冬(ただふゆ)は、足利尊氏の長子であるが、正室の子でないため、尊氏は彼を優遇することを避けてきた。尊氏の弟直義は、独身で、子がいなかったから、直冬を養子としてかばっていたが、尊氏の執事高師直(こうのもろなお)は、直冬を尊氏に近付けることを嫌い、両者は険悪な状態にあった。
 貞和五年(一三四九)四月、直義は、直冬を中国探題として、中国八か国の支配に当たらせるために備後国鞆(とも)の津に下向させた。間もなく、高師直のクーデターによって、直義が失脚し、直義にゆだねられていた一般政務および訴訟裁決権を尊氏の嫡子義詮(よしあきら)へ譲らされた。また、高師直は中国探題足利直冬の討伐を命じた。

直冬の花押

 足利直冬は、伊予や備後の武士に守られて、四国へ渡ったと、京都で噂(うわさ)されたが、実は肥後の河尻幸俊の船で、肥後緑川の河尻に上陸し、大友一族詫磨宗直らに支えられて、大和太郎左衛門尉(宇都宮隆房カ)の城へ押し寄せた。『相良家文書』に次の記述がある。
    又、京都・東国無為無事に候、相構え々々驚ろき動くこと有るべからざるの儀に候、又、中国の事、高越州(師泰)下向の上は、不審無く候、鎮西も異なる事候はば、彼の人下向あるべき由、仰せつけらる旨、承り及び候
  ご音信悦び入り候、肥前・肥後の凶徒蜂起の間、対治のため、去る三日、出府せしむるの処、肥後の国大和太郎左衛門尉の城を、佐殿の御事、河尻幸俊・詫磨宗直以下の輩、取籠め候て、攻めるの由、注進あるにより、筑後孫次郎(武藤資尚)并び筑前豊前両国の守護代と、同軍勢等を差遣し候いおわんぬ。当国の事、子細あるべからず候か、郡内の事、一向憑(たの)み存じ候、大田方ニも談合有りて、相構々々警固あるべく候、肥前の事、沙汰の最中に候、是又、子細有るべからず候、恐々謹言
      (観応元)四月廿日
(少弐)頼尚(花押)     
(原文は漢文)  

 すなわち、肥後・豊前・筑前の守護少弐頼尚は高師直の命令を受けて、大和太郎左衛門尉(宇都宮頼房の長子の意か)の城救援のために、弟の資尚および筑前・豊前の守護代に両国の軍勢を率いて出張するよう命じた。このときの筑前国守護代は饗庭(あえば)右衛門蔵人宣尚(のぶひさ)(苅田庄の地頭職を所持していた饗庭弾正左衛門宣兼はその一族)、豊前国守護代は宇都宮一族西郷兵庫允(じょう)顕景(あきかげ)であると思われる。