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少弐頼尚の直冬支援

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鎮西管領一色道猷と対立していた少弐頼尚は、観応元年(一三五〇)九月には、「京都より仰せ下さるる子細候の間、佐殿の御方に参じ候」と、足利直義の内命を受けて、直冬を婿に迎え、直冬方となった。
 少弐頼尚の支援を得た直冬方は、急速に勢力を増大させた。
  当国の凶徒等、陣を如法寺左篠に執るの間、対治のため、明日十七日罷向い候、後攻として、一族等を相備え、山国より発向せしめ、軍忠を致さるべく候、よって執達件の如し
    観応元年九月十六日
(西郷顕景)兵庫允(花押)     
      田口三郎殿
(原文は漢文)


西郷顕景の花押

 少弐頼尚の被官となって、豊前の武士を指揮統率していた西郷顕景は下毛郡の田口氏へ、如法寺(ねほうじ)に陣取る一色範氏方(宇都宮公景・如法寺氏等カ)を攻撃するために山国方面からの後攻めを命じている(『田口文書』)。
 この年十一月十六日付の『阿蘇文書』には「豊前国凶徒退治の事、公方より御教書を成され候の間、取り進じ候、(中略)一、大友兵部大輔(氏宗)殿方へも豊後国凶徒対治の事、御教書を成され候、同じく御談合候て、急速御退治あるべく候はば悦び存じ候」と、頼尚は、直冬のことを「公方」と呼び、その発する文書を「御教書(みきょうじょ)」と称して、阿蘇大宮司惟時に大友氏宗との協力を依頼している。
 この年、年号が観応と変わるが、直冬はこれを用いず、貞和の年号を使用し続ける。南朝は正平の年号を使うから、九州では、まさに鼎立(ていりつ)の格好となった。これより前、一色道猷の子直氏は直冬らの勢いに押され、赤間関へ逃れ、「京都の御左右(そう)を相待つため打ち越した」と弁解した。
 十二月十三日、足利尊氏は自ら直冬の討伐を決意して「九州の事、片時も急ぎ思しめし候間、急速打通るべく候処、四国・中国の事、この辺において沙汰あるの最中なり、落居せしめば、不日下向すべし、その間、用意を致し、籌策(ちゅうさく)を廻らすべし」と、将軍の奉公衆である大友一族田原入道正曇へ籌策を命じ、一色道猷は宇都宮公景へ直冬に与同した元永弥次郎跡元永村、武藤対馬左近将監入道跡伊方庄、宇都宮薩摩彦次郎跡肥後国岩野村、宇都宮壱岐弥太郎跡肥後国木葉村、北条家時跡豊前国吉田庄地頭職を与えて、味方に繋ぎとめようとした。
 観応元年十二月、尊氏中国出陣の先発隊として、飯沼兵庫助入道が下向し、豊前東部(上毛・下毛・宇佐郡)の友枝・永添(そい)・高瀬・坂手隈・赤尾などで、秣(まくさ)・深水(ふこうず)の直冬方(武藤一族カ)と合戦があり、野仲氏の庶家野依弾正忠貞輔・山田三郎・田口三郎が一色道猷方として参陣した。
 少弐頼尚は翌年正月、肥前の武士を率い豊前へ出陣した。