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観応の擾乱と直冬

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足利尊氏が直冬討伐のために中国路を西下している留守中、京都で蟄居(ちっきょ)状態にあった足利直義が河内へ走って、南朝方へ降り、その兵力を借りて京都奪取を図り、留守を預かっていた足利義詮を逃亡させた。このため、尊氏が高師泰・師直兄弟とともに、直冬討伐を中止し、帰洛してくるのを観応二年(一三五一)二月直義は摂津打出浜で待ち受けて、激戦のすえ破って尊氏を屈伏・和睦させ、高師直・師泰兄弟を滅ぼして、失っていた政治の実権を奪回し、三月、直冬を正式に鎮西管領とした。
 しかし、直義時代は長くは続かず、この年の八月、今度は尊氏が南朝方へ降り、直義を圧迫して北陸へ走らせて、京都を奪回し、更に直義を追って、北陸から関東・鎌倉へと追い詰め、ついに毒殺した。これを観応の擾乱(じょうらん)という。
 観応二年九月、尊氏は田原貞広へ「高倉禅門(直義)の事、子細を申さるにつき、合躰する所なり、その旨を存知すべし、次に直冬の事、彼の落居に依るべからず、先度の御教書の旨に任せ、不日、誅伐すべきの条、件の如し」と書き送り、直義と和睦はしても、直冬は誅伐(ちゅうばつ)せよと命じた。
 それでも、直冬による九州支配は、その後一年余も続いた。