小野三郎左衛門宗像資村所々軍忠の事、
去年八月三日、光富において御旗を上げ、軍忠を致しおわんぬ。次に宗像城に馳せ参じ御手に属し、大宰府少弐頼尚寄せ来るの時、度々の合戦に軍忠を抽じおわんぬ。次に十一月五日の夜、小倉城を追い落すの時、合戦の忠を致しおわんぬ。次に同十三日、当国府中に御発(向脱カ)の時、光富に敵数輩楯籠るの間、押寄せ、同日、豊田太郎左衛門種本を打取るの時、自身手負いおわんぬ。此の如き軍忠の次第、ご存知の上は、御証判を賜り、後の証に備えんがため、言上件の如し。
観応三年(一三五二)三月廿三日
(一色道猷(いっしきどうゆう))
「承り候ひおわんぬ。判」
(『萩藩閥閲録』巻七一、原文は漢文)
尊氏がクーデターを起こして直義から再び政治の全権を奪い返したことによって、九州でも直冬に代わって鎮西管領の座に返り咲いた一色道猷の催促に応じて、観応二年(一三五一)八月三日、光富に旗を揚げた宗像一族小野三郎資村は、一色道猷と共に宗像城に籠城(ろうじょう)して、少弐頼尚の攻囲軍と戦い、小倉城攻略にも軍忠を励み、十一月十三日、国府に進発したところ、直冬方の豊田太郎種本らが、光富の城に籠城して抵抗したので、これをその日のうちに攻略した(第1図参照)。この時、自身負傷したということを承認してもらいたいというものである。『豊前志』に「黒岩城址」光富村にあり、城主未詳とある。『豊前古城記』に黒岩ケ城由来申伝なしとある。この事件と関係があるのか。
第1図 光冨城跡
このころ、豊前守護は少弐頼尚から大友氏泰に代わっているので、国府を接収する作戦が行われたのであろうか。豊田姓は大野井など、行橋市にかなりあり、大蔵姓の在庁官人であったのではなかろうか。もっとも、光富名は長門国豊東郡にもあったというから、長門国の出来事かもしれない。今後の課題としておきたい。
足利尊氏は、少弐頼尚が所持していた筑前守護職を弟の大宰筑後左近将監資経へ与え、豊前の守護職を大友氏泰や宇都宮守綱へ与えた。しかし、少弐頼尚の力が強く、守護としての実績を確認できるものは少ない。
一色直氏は、尊氏が南朝方と和睦したのを機に、肥後・筑後の懐良親王方の力を借りて、太宰府の直冬・少弐頼尚を攻め、観応三年(一三五二)十一月には窮地へ追い込んだ。