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直冬・頼尚南朝方へ

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しかし、尊氏と吉野方の和睦が正平七年(一三五二)閏二月十五日、崩れるとともに、一色直氏と懐良親王との間も、しだいに冷え、孤立して苦境に立たされていた少弐頼尚が、中国地方へ逃れ南朝方に降っていた直冬の画策によって、南朝方に降り、菊池武光の支援で、太宰府浦城での一色直氏方の包囲を解くと、今度は、少弐勢を加えた懐良親王方が優勢となり、正平八年二月二日、筑前針摺原(はりすりばる)(筑紫野市)の合戦で、少弐頼尚・菊池武光軍が一色範氏軍の田原貞広一族多数を戦死させるなどの成果をあげて破り、一色直氏を肥前綾部城に追い込んだ(『北肥戦誌』)。
 足利直冬は、これより前、長門国へ移り、やがて南朝方へ降伏して、安芸の毛利氏や山陰の山名時氏・師氏父子に擁せられて、伯耆国から上洛し、一時的ではあるが、京都を占領するほどの勢いを示した。