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城井常陸前司入道の挙兵

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『入江文書』に次の史料がみえる。
田原下野権守氏能軍忠の事
  宇都宮常陸入道謀叛により、霜台(今川氏兼)御発向の間、急速に馳せ参ずべきの旨、仰せ下しにより、時日を廻らさず参陣せしめ、去る二月廿三日より、豊前の御陣において堪忍せしめ、連日野臥り合戦の時、親類若党、毎度疵を被りおわんぬ、爰に去る八月廿八日の夜、豊後国の凶徒、同国北浦辺の花岳に忍び上り、城郭を構え、豊後・豊前両国の通路を塞ぐの間、事延引せば天下の御大事たるべきにより、惣領大友(親世)方より度々の注進につき、彼の城に馳せ向うべきの由、霜台の御意をもって、不日、彼の在所へ罷り向い、去る九月六日の暁、当城花岳へ押寄せ、散々合戦を致し、親類若党数十人、疵を被るといえども、同日対治仕り、時剋を移さず、城井帰陣せしめ、宿直を致すの処、同廿五日、高畑城を没落するの間、霜台の御共を致す(下略)
    応安七年十月 日
          「承り了ぬ(花押(今川了俊))」
(原文は漢文)

 すなわち、応安七年(一三七四)正月、城井守綱が南朝方となり、今川了俊に敵対したため、豊前守護今川弾正少弼(ひつ)氏兼(了俊の弟)から依頼を受けた大友親世の軍勢催促を受けて、豊後国東(くにさき)郡の大友一族田原氏能は二月二十三日から参陣した。
 正月末日、城井は焼き払われ、守綱らは城郭へ追い入れられ長期戦の様相を呈し始めていた(『草野文書』)。
 田原氏能は連日の野臥(のぶせ)り合戦で、三月三日に四人、同二十八日に二人、八月十三日に七人の負傷者を出す小競り合いを続け、九月二十五日、守綱が高畑城(築城町松丸付近カ)から姿を消すまで忠節を尽くした。
 その間、八月二十八日には、豊後勢の後方を遮断するため、大友氏継方が、田原庶家直平らを花岳(豊後高田市・山香町境)に挙兵させたので、田原氏能は帰国し、花岳を攻めて一六人の負傷者を出す奮戦で攻略し、また城井の陣へとって返したという。
 高畑城の戦いには、備後の武士長井貞広も、今川氏兼に従って参陣し、自身負傷している(『萩藩閥閲録』所収「福原文書」三八号)。
 宇都宮常陸入道を『豊前宇都宮興亡史』の小川武士氏は城井八代目の直綱とする。川添昭二氏は『今川了俊』(昭和三十九年刊)で直綱としたが、『九州探題今川了俊の軍事活動』で守綱と推定し、『南北朝期の豊前国守護について』で、山口隼正氏は守綱と想定している。
 城井守綱は『宇都宮佐田氏系図』によると、関東宇都宮惣領家貞綱の子で、鎌倉に生まれ、幼少にして、城井頼房の子として育てられ、大和弥(いや)六と称したらしい。城井頼房は大和守に任官する前は薩摩六郎左衛門尉と言われたようだから、これにちなんで、大和弥六左衛門尉と称し、元徳元年(一三二九)十二月以前に、城井氏惣領となったらしい。正慶二年(一三三三)には常陸介に任官し、北条高時の一字をいただいたのか高房と言った。建武元年(一三三四)十月には、常陸前司冬綱と言い、文和三年(一三五四)九月には守綱を称している。足利直冬の家来と見られるのを避けて改名したらしい。『紀井宇都宮系図』では、貞治五年(一三六六)二月三日、京都にて、七十歳で没したとなっている。
 守綱の次の家綱も、実は関東宇都宮公綱の子で、常陸介を称し、応安三年(一三七〇)八月九日、六十歳で京都において没したという。
 その子直綱は管領細川頼之と不和で、義満にもうとまれたという。
 幕府の細川頼之―今川了俊ラインが大友家・少弐家に重要な変化を与えたように、宇都宮城井氏にも、幕府に対して反発を招く原因を作り出したに違いない。もう一つの大きな疑問は、二代にわたって、関東宇都宮家から城井家督を迎えていることである。それほど、関東宇都宮家の統制力が強いのか、それとも、関東宇都宮氏の鎌倉幕府内や、室町幕府内での地位を利用して、肥後守護代や筑後守護職を獲得しえたのであろうか。

足利義満の花押