宇都宮常陸入道が没落した翌永和元年(一三七五)八月、今川了俊は筑後川を渡って、陣を水島に進め、菊池氏の本拠地隈府へ最終的な攻撃をかけようとして大軍を集結させていた。
今川了俊は、大友親世・島津氏久・少弐冬資の出陣を求めたが、少弐冬資が出陣しなかったので、島津氏久をして説得させ、ようやく姿を見せた。了俊は酒宴の席で弟仲秋に命じて、少弐冬資を刺殺させた。冬資はこれ以前から、強権を行使する了俊を快く思わなかった。冬資の父頼尚と一色道猷が対立したように、了俊は少弐氏の領国筑前・豊前などを確実に脅かしていたからである。
面目を失った島津氏久は帰国し、南朝方に替わり、以後一〇余年間、了俊の九州統一を妨げた。大友親世も帰国したため、隈府攻撃は中止せざるを得なくなり、探題軍は筑後川の北岸へ撤退し、作戦の練り直しをすることになった。