大内氏の九州渡海の最初は、これより一二年ほど前、斯波氏経の要請にこたえて、大内弘世が渡海し、いったんは豊前を掌中にすることに成功したが、翌年、二度目の出兵は、馬ケ岳に敗戦し、香春岳で孤立して降参し、辛うじて帰国したものである。今川了俊の太宰府占領後帰国していた大内弘世へ、再び出兵を促したが、安芸方面での戦闘に意を注いでいた弘世はこれにこたえず、大内弘世と不仲となっていた子息の義弘が、父の意向に逆らって、永和元年(一三七五)十二月ごろ、弟の満弘とともに三〇〇騎ほどの兵を率いて豊後へ渡り、田原一族の吉弘氏輔入道一曇とともに、豊前に入り、下毛郡の野仲郷司の城に滞在していた今川氏兼と一緒になって、筑前へ向かい、了俊に力を与えた。このとき、義弘は二十歳の若者であった。
大内義弘の花押