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大内氏、豊前国守護へ

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今川了俊は、豊前守護職を与えることを条件に大内義弘の来援を誘ったらしい。以後、大内義隆が滅亡する天文二十年(一五五一)まで、約一七〇年間余も、大内氏は豊前国守護として、豊前の人々に君臨した。
 なお、大内氏の豊前国守護補任は、従来、応安七年(一三七四)とされたが、近来の研究で、康暦二年(一三八〇)ごろとされている(山口隼正「南北朝期の豊前国守護について」『中世九州の政治社会構造』)。
 次の『佐田家古文書』(『太宰管内志』豊前之十)は、永和二年(一三七六)十月以前に、大内義弘が豊前守護であったことを物語る。
  八幡宇佐本宮御許山雑掌申す、豊前国宇佐郡佐田・深見両庄の事
   代々の支証等被見し畢ぬ、探題ノ時は半済たりといえども、寺家へ渡し付けらるべきの状、件の如し
     永和二年十月九日
散位(大内義弘カ) 判    
      陶周防守(弘綱カ)殿
(原文は漢文)

 この史料の散位某とは二十歳と若い、任官前の大内義弘らしく、守護代と考えられる陶周防守へ下地の遵行を命じたものである。
 これを補強する史料として、三月四日付の「今川了俊書状」(『田原達三郎文書』)がある。それは、国東半島の夷(えびす)城(香々地町夷)に籠城する田原氏能へ「その城を救援するため、軍勢を送ろうと考えているが、豊前路を進むと(少弐冬資誘殺直後のことでもあり)、大内家の人々が豊前守護職のことを疑って、気まずいことになるので、まず、大内方の了解を得てから、豊前路より軍勢を進めようと考えている」と述べているから、この史料が、大内義弘の豊前守護補任直後のものであり、永和二年三月のものと思われる。
 更に、永和三年(一三七七)の『相良前頼(さきより)代成恒種仲申状』(『成恒文書』)に「九月九日の探題御内書并びに応安八年正月廿六日、其時の守護霜台(今川弾正少弼氏兼)御遵行」とあることから、応安八年(一三七五)正月のころの豊前守護は今川氏兼で、永和三年には守護が代わっている。恐らく大内義弘が守護となっていることを意味するものと考えられる。
 今川了俊が、九州下向にあたって、備後・安芸の守護職を兼帯していたことは先述したが、九州では、豊前・肥前・筑後・肥後・日向・大隅の六か国守護職に加えて、水島の変後は、少弐氏の筑前、島津氏の薩摩を没収し、八か国の守護職を握り、これを探題分国と称して、一族の仲秋や氏兼、大内義弘や河尻・阿蘇氏を守護職(しき)に推挙する権限を持っていた。今川了俊は、今川氏兼を豊前から日向の守護へ、今川仲秋を肥前から肥後の守護へ移し、豊前守護職を大内義弘に与えて、その兵力を利用した。
  宇都宮小法師丸(佐田親景)申す、豊前国伊方并びに元永の事
  先度申し候ところ、事行かず候よし歎き申し候、不便の事に候、相違無く返付せられ候はば然るべく候、父祖討死の跡に候、忠節他に異なり候間、かくのごとく申し候、なおなお、無為の御計い候はば悦び入り候、恐々謹言
     三月十七日(康暦元ごろ)
了俊 在判
      大内左京大夫(権脱カ)殿
 これは、佐田親景の祖父公景が、観応元年(一三五〇)十二月、一色道猷から、勲功の賞として与えられ、経景が、永和元年(一三七五)筑後山崎(立花町)の合戦で戦死したので、伊方庄(武藤対馬左近将監入道跡、田川郡方城町)と元永村(元永弥次郎入道跡、行橋市)の打ち渡しを求めたことに対し、了俊が豊前守護大内義弘へ遵行を依頼したものである。伊方庄も元永村も、直冬に与した少弐頼尚側の所領であり、このころ、大内氏家来に与えられていたのかもしれない。
 この史料のように、探題分国においては、幕府→今川了俊→守護→守護代→現地御家人の順序で文書が発せられている。
 ところが、数年後、大内義弘は独自に、守護→奉行衆→守護代→現地被官の命令系統で政務を執行し始める。
 大内義弘の豊前守護代は、史料によると、
  陶周防守弘綱→陶尾張守弘長→森掃部頭尚弘→杉備中守重明→森大和入道良智→大内満弘
と変遷していることが分かる。いずれも周防・長門から派遣されており、まだ固定せず、短期間で交替している。
 また、宇佐宮関係については、大内義弘が豊前国守護となってからも、今川了俊が直接関与している。今川了俊が大宰府在庁官人の代表として、大宰府管内の寺社の興行に務めたのであろう。宇佐大宮司選任の吹挙(すいきょ)や下宮造営については、家臣の岩部宗宣を奉行として派遣し、豊前国内の宇佐神領の段銭を造営費用に充て、もし難渋するものに対しては、下地を没収して修理料所とするという態度で、段銭徴収に当たるよう、守護大内義弘に命じている。