南北朝の合一が成立した三年後の応永二年(一三九五)、今川了俊は九州探題を解任され、京都へ召喚された。帰京の了俊に対し、幕府はその二〇余年にわたる労苦に報いるのに、遠江半国の守護職を与えたのみだった。了俊はこれに不満で、後年『難太平記』を著し、その間の事情を次のように述べている。
大内義弘は、娘婿である大友親世と共に、了俊のことをしばしば讒言(ざんげん)した。細川頼之にかわって管領となった斯波義将(よしまさ)も、了俊更迭に動き、渋川義行の子で、斯波義将の娘婿である渋川満頼を了俊の後任として準備していた。また、大内義弘に探題の座を狙う大望があったという噂を耳にした。
しかし、客観的に考えれば、九州八か国を探題分国として、守護推挙権を握る了俊の大権は、非常時のものであり、南北朝対立の終わった段階で、公方に返還されるべきであると考える義満―斯波義将ラインにとって、今川了俊は、一一か国の守護山名氏に次いで、警戒すべき存在となっていたのである。