大内義弘は約二〇年間、豊前国の守護を務めたが、豊前国の武士を自己の家臣団に組み込むには至らなかったもようである。しかし、長門国の有力国人を被官化して、杉氏などを豊前守護代として派遣し、豊前国に獲得した所領や代官職を与えて、その主従関係を強固にしていった。杉備中守重明が、明徳元年(一三九〇)、宇佐郡院内の副(そい)越中守知行分を宛行われ、京都郡豆福丸代官職と大野井庄代官職を宛行われているのはその例である。また、先述の伊方庄や元永村、下毛郡福永名(中津市湯屋)は「あるいは本所領と称し、あるいは城井の跡と号し」(『湯屋文書』)て守護方が知行しており、今川了俊は訴えを受けて、大内義弘に返付を命じている。大内氏は、係争地は闕所地として押さえ置き、給主が確定するまで、家臣に預け置くという方法をとった。
応永六年(一三九九)十月、大内義弘は謀反人として、堺へ誘い出され、討伐を受けた。世に応永の乱という。
この乱の原因について、『応永記』は①二年前の少弐氏討伐に、弟の伊予守満弘、六郎盛見(はる)に五〇〇〇余の兵をつけて渡海させ、満弘が戦死するほどの苦戦となったため、義弘が京から下向して鎮定したが、このとき、義満が、菊池方に義弘を討てとひそかに命じたこと、②山名氏清討伐の明徳の乱で、勲功の賞として和泉・紀伊二国を宛行われたが、これを改替するという噂、③弟満弘戦死について、今もって恩賞の沙汰がないこと、などをあげている。
これについて、京都から派遣された使僧絶海中津が一々反論すると、義弘は「政道を諫め奉るため、関東の足利満兼と同心しているから、来月二日をもって、満兼と同時に参洛する」と答えて席を立ったので、和解交渉は決裂した。
義弘は兵五〇〇〇をもって、堺に築城し、幕府軍三万余と対峙(たいじ)し、やがて各所で激戦が始まり、義弘は壮烈な戦死を遂げた。