大内弘茂が帰国すると、盛見はいったん豊後へ逃れ、翌年十二月二十六日、大友親世の支援を得て、長門府中へ渡海上陸し、同二十九日、下山(さかりやま)城を攻めて、弘茂軍を破り、弘茂を自殺せしめた。
応永十年(一四〇三)、幕府は、大内介四郎入道道通に、安芸・石見の兵をつけて、盛見を討伐させようとした。同年四月、盛見は介入道を追い詰めて竈戸(かまど)関(上関)に入水せしめ、安芸・石見の国人をも降して義弘の旧領を回復した。結局、幕府は防長二か国を盛見へ与えることで和睦した。
上洛した盛見は、足利義満の信頼をも回復して、応永十一年(一四〇四)ごろには、豊前守護職を与えられ、以後三〇年ほど在京して、将軍に近侍し、晩年には、公方御料国となっていた筑前国代官をも務めた。
義弘の乱のあとの数年間は、少弐貞頼に豊前守護職が与えられていた。しかし、応永十一年(一四〇四)、肥前・筑後の守護職をめぐって、九州探題渋川満頼と少弐貞頼・菊池武朝が合戦に及んだ。幕府は大内盛見・大友親世に命じて、九州探題を支援させ、豊前鳥越(とりごえ)城(安心院竜王山カ)を抜き、田河郡香春岳や馬ケ岳を攻略したが、猪岳(いのたけ)(大坂山)の合戦で、大内方は前豊前守護代陶尾張守弘長を戦死させる苦汁を飲まされた。その功労によるものか、豊前守護職を還補(げんぶ)された。
大内盛見の花押
大友親世の花押